第5話 森に消えた女


 3日目。
 僕らはスノーモービルのツアーに参加した。
 凍った湖を渡り、森の中の細い道を走り抜ける1時間弱のコースだという。
 以前、北海道の阿寒湖上で乗ったときは、決められた平らなコースをゆっくり走るだけだったのでとてもつまらなかった。ここでは湖の上なら7〜80キロ出してもいいし、先導車を見失わない程度なら自由に走り回っていいという。今日は天気もいいし、楽しみだ。

 スノーモービルは、かなり大型のものだった。排気量は聞かなかったが、500ccくらいだろうか?
 僕らのグループは、先導車のカナダ人・ジョンちゃん(こう呼ばれていた)、僕ら2人、見知らぬ夫婦2人の5人だった。森の中に入ったら、僕らがジョンちゃんの後ろ、夫婦はその後ろを走るようにと言われた。一列にならないと走れないような道幅なのだそうだ。
 アクセルレバーを握ると、マシンは強烈に加速した。ジョンちゃんがあっという間に見えなくなってしまう。僕も急いで追いつく。時速50マイル程度で走っていると、あとの皆がついてきていない。僕は蛇行したりその場でぐるぐる回ったりしてペースを合わせた。
 やがて湖を渡りきり、一般道に出た。道を横切ると、かなり急な斜面を登って森に入った。日本の観光地では、こんなところは走らせないだろう。ああ車にぶつかったらどうしよう坂でひっくりかえったらどうしようと考えすぎ、結局ロープで囲った中しか走っちゃいけませんよという過保護ゴーカート風ツアーになってしまうのだ。
 森に入ると、湖上を走る爽快さとはまた違った楽しみがあった。木々の間を縫うように走り、雪だまりを乗り越えて進む。

 しばらく森の中を走り、急な曲がり角を過ぎたあたりで、不意にジョンちゃんが止まった。後ろをついてきているはずの夫婦がいない。
 エンジンを切ってしばらく待ったが、夫婦は現れない。ジョンちゃんはマシンを降りて曲がり角の向こうに歩いて戻って行った。
 それから数分。静かな森の中で、僕はしばらく休憩しながら待った。木々に降り積もった雪の間からすらりと差し込む陽の光。澄んだ空気に咲く白い息を弄ぶ。時折、木の枝から雪が落ちる音が聞こえてこなければ、僕は時間が止まったと勘違いしたかもしれない。
 やがて、ジョンちゃんが現れた。ダンナのマシンに乗り、後ろにダンナを乗せている。奥さんの姿は見えない。
 「何があったの?」
 僕はジョンちゃんに聞いた。
 「彼の奥さんが消えたんだ。どこに行ったかわからん。戻ってるかもしれないから、急いでキャビン(出発地の小屋)に戻ろう」

 ジョンちゃんは再び走り出した。
 かなり細く、アップダウンもある道だったが、僕らは(いなくなった奥さんを含め)4人ともスノーモービルの運転経験があるので、なんとかついて行った。再び湖に出ると、ジョンちゃんはものすごい勢いで走っていった。僕も急いだ。僕が一番後ろを走っていれば、奥さんがいなくなることはなかったかもしれないという、責任感。時速70マイル(112キロ)で突っ走った。本来なら、休憩を挟んだり写真を撮りながらゆっくりのんびりと走るツアーらしいのだが、今回は全力疾走だ。

 僕がキャビン近くにたどり着いた頃、ジョンちゃんは再び湖に出てきた。
 「彼女は戻ってなかったよ。きっと道に迷ったんだ。ダンナもどこにいるか知らんと言ってるし、私も知らん。迷ったんだ」
 「分かれ道で?」
 「ああ、たぶん」

 キャビンでは、スタッフが捜索に出る支度をしていた。他の参加者も心配そうにそれを眺めている。
 僕が最後を走っていれば。僕がもっとゆっくり走っていれば。
 もう午後の2時を回っている。北緯60度に近いこのあたりでは、もうすぐ日が暮れる。マイナス25度の山の中で、一人迷ってしまったら...。
 みんなが不安を打ち消すように話し合っている間、ダンナだけは黙って湖の向こうを見ていた。

 日がまさに沈もうとし、最悪の事態を迎えつつある時、遠くから微かにエンジン音が聞こえてきた。
 ジョンちゃんが帰ってきた。後ろに、緑色のマシンがついてきている。彼女だ。
 無事に発見されたようだ。

 本人に聞いた話だが、道路を渡って最初の分かれ道を逆に行ってしまったらしい。そこからは一本道だったので迷う心配もないから、みんな待たずに行ってしまったと思っていたそうだ。
 ともかく、無事に済んで良かった。
 心配させたこととツアーが短くなってしまったことのお詫びに、夫婦はビールを差し出した。僕はそれを飲み干した。これですべてはチャラだ。僕は、空を見上げた。この澄んだ藍色の空が、今夜のオーロラ観測のときまで続いてくれることを祈った。