イギリスは旨いのだ

第4話 3日目@
フル・イングリッシュ・ブレックファースト


 3日目の朝も、ロンドンの空はどんよりと曇っていた。僕とツマは、お前が雨女なのだアンタが雨男なんだと朝っぱらからケンカをすることもなく、もともとそういう気候だし季節なのであたりまえだよね…と身支度を調えた。今朝は外に出てから朝食を取ることにしていた。経験上、ホテルの高価お上品ゆったり朝食バイキングよりも、ホテル近くのカフェっぽいところで食べる朝ご飯のほうがおいしいのだ。ホテルのレストランではまわりはほとんどみんな休暇中の旅行者だけれど、街角のカフェではせかせかと会社に向かう人たちを眺めながらのんびりと朝食を食べられるので、優越感に浸れることも大事なスパイスになってくれる。
 このホテルの近くには、少し有名な、店先にポットをたくさん並べた店がある。残念ながらそこはまだ店を開いていないようだったので、道を挟んで向かい側のPOP'Sというカフェに入った。
 カウンターの上に黒板があり、Pop's Special Breakfastと書いてある。その下にはスペシャルブレックファストを構成するそうそうたるメンバー、卵・ベーコン・トマト・ソーセージ2つ・豆・ブラックプディング・マッシュルーム・トースト2枚・紅茶が書き並べられていた。実に基本に忠実、伝統のフルブレックファストであることが判明したので迷わずそれを注文した。これが1人前5.5ポンド(900円)。なんだかずいぶん高いなあ。
 席について周りを見ると、通勤途中のサラリーマン風の男と工事現場で働く風の男が同じテーブルについている。他にもテーブルは空いているのになぜだろう、としばらく観察していたが、この2人の関係はわからなかった。親しげに話す様子でもなかったので他人同士なのかもしれないし、いまさら取り立てて話すこともない、別々の人生を歩み出した兄弟なのかもしれなかった。カウンターの向こうの壁にはメニュー表が貼ってあり、ソーセージやベーコンの組み合わせで自分好みの朝食を選べるようだった。トーストと卵だけ、のような簡単なものもあり、なかなか選択の幅が広い。
 しばらく待っていると、まずトーストと紅茶が運ばれてきた。トーストが2人分4枚が重ねて置いてあったのはいいとして、紅茶はすでにミルクを大量に投入済み、それに紐の付いていないティーバッグがプカプカと浮いたままだ。なんだかイギリスはみんな紅茶に関してずいぶんといい加減な態度をとっている。紅茶にはただならぬ思い入れがあったのではないのか。他の客はしかめっ面をしてティーバッグを取りだしているので、僕らもそれに倣って適当なところで取り出す。
 なんだかねえ、とため息をつきながらトーストをかじっていると、ベーコンやら卵やらが乗った皿が運ばれてきた。ううむ、と僕は唸った。これはとても旨そうじゃないか。皿の上にある品々は、食品の種類こそは昨日ホテルで食べたものと同じなのだけれど、ベーコン、トマト、ソーセージなどが円形に並び、ベイクドビーンズがそれらに囲まれている。昨日、僕は何も知らず、ベイクドビーンズは他のものにくっつけてはいけないよね…と別皿に持ったのでだらしなく広がり、全然おいしそうに見えなかった。他のものにくっつけていいのだ。ソースで煮込まれたベイクドビーンズは、ベーコンやソーセージと混ざることで相乗効果で旨くなるのだ。僕らはこのPOP'Sの朝ご飯でイギリス風朝食の虜になってしまったのだった。

 朝食に満足した僕らは、アールズコート駅から地下鉄に乗り、カティーサーク・フォー・マリタイム・グリニッジ駅に向かった。アールズコートから1時間ほど。ちょっとした遠出だ。この駅からしばらく歩くと、世界標準時のグリニッジ天文台がある。イギリスに来たからには、グリニッジに行かないわけにはいかない…ということもないけれど、せっかくだから行きたかったのだ。
 駅から天文台までは結構な道のりだ。今日は2月20日、寒い。とても寒い。駅から閑散としたマーケットを抜けて公園に向かう。広くて何もない公園を寒風に堪えながら進むと、やがて小山にぶつかる。そこを上ると、グリニッジ天文台だ。
 7ポンド(1120円)の入場券を買って入場すると、そこに子午線があった。いや子午線は目に見えなくてもあるのだけれど、そこにはオレンジ色の棒状のプレートが埋め込まれていて、経度ゼロがわかるようになっていた。
 たいていの人は、そこをまたいで真北を向き「右足は東経、左足は西経」と写真を撮るのが一般的で、ちょっとひねくれた人は西から歩いて来て子午線をまたぐ瞬間の写真を撮ったりする。僕らもまあそれ以外思い浮かばないしね…とそのような写真を撮った。
 僕はふと思いつき、タブレットのGPS情報を見てみた。経度ゼロ地点など、めったに来られないのだ。GPSが示す経度は、西経0度0.091分。おしい。GPSの誤差を考えたら上出来なのだろうけれど、おしい。僕はややガッカリしつつ、ツマにつれられてトボトボと博物館に入った。時計に関する様々なものが展示してあり、興味深くはあったけれどそれほど目を引く展示物もなく、20分もかからずに回ってしまった。
 売店でちょっとした土産物を買おうとレジに並ぶと、なにやら前の人がレジのおばちゃんと揉めているようだった。揉めているというか、若い女性2人組がビールを買おうとして身分証明書の提示を求められている。彼女らは「なになに?なんだろう?」と言っているため、状況が理解できていないこと、ならびに日本人であることが判明したので、年齢がわかる身分証明書がないとダメらしいっすよ、と伝えてあげた。それでもなお、彼女らはどうしようどうしようと言っている。パスポートとか持ってないですか、と聞いてみても持っていないという。結局、なんだかわからないカードを提示し、レジのおばちゃんはもう面倒くさくなってしまってどうでもいいよまったくもうまったくもうという感じでカードをちらりと見ただけなのだった。
 2人組みは僕に礼を言った後で何歳から酒を買えるのかと聞いてきたがそんなこと知らん。こっちはもうとっくに世界中どこでも大手を振って酒を買える年齢なのだ。
 それにしてもこの季節にイギリスに来るとはずいぶんと物好きもいたものだなあ…と僕は苦笑いしたのだった。

 正午を少し回ると、ロンドン市内に戻って、市内を観光することにした。
 ロンドンは山手線の内側より少し狭いくらいで、しかも地下鉄が非常に効率よく張り巡らされているから、1日あれば十分見て回れる。
 セントポール大聖堂はセントポール駅を出てすぐのところにある。すぐと言っても、地上に出たら目の前に、というわけではなく、たぶんこっち…と頼りないガイドブックの地図を頼りに歩いた。すると正面に大聖堂がドンと現れ…たら感激するのだろうけど、実際はオヤ何かずいぶん大きく古い建物があるな、とたいした感激もなく大聖堂の横に出てしまう。ぐるりと正面に回り込んで、初めてオオゥ…と声が出る。
 この時の感動を「荘厳」という言葉を使わずに説明しようとすると、「とにかく超でっかくて超すげーんすよ」となってしまう。そのくらい荘厳なのだった。宗教にはあまり興味がないけれど、こういったものを作り上げる人々のパワー(信仰する精神的なの力と、物理的な力)には恐れ入る。
 残念ながら内部は撮影禁止で、だからどんな様子だったか思い出すのが難しい。ただ、伊勢神宮に一歩立ち入ったときに感じたのと同じ、体の中をきれいな空気がスウッと流れて行く感覚だけはとてもよく覚えている。
 少し浄化されて聖人となった僕らは世界遺産のウェストミンスター宮殿、ならびに聖マーガレット教会を含むウェストミンスター寺院を見に行くことにした。寺院は15時半までだけれど、まだ14時半を少し回ったところ。
 ところが、入口で係員に止められてしまった。曰く、もうすぐ閉まるから今から入場してもあまり時間がない、また今度来てくれとのこと。じゃあまた今度来ますと引き返すわけにも行かないので、時間がないのはわかるが僕らは明日の朝早くロンドンを発つのだ、そして北へ向かうのだ、そこはきっと冷たい風が吹きすさび私の涙を氷に変えてしまうのルルル…と説明し、時間がないのは承知だけれど入場することにした。
 内部はさすが世界遺産、圧倒される。僕は馬鹿のように口を開けて見上げることしかできず、ワァとかオォとか簡単な言葉しか出てこなかった。
 しかし閉館時間が近いのである。係員のおじさんが後ろから付いてきて、さあさあ立ち止まらずにね、わしら残業したくないからね、はやく家に帰ってあったかいスープ飲むんだからね、と追い立てる。一度通り過ぎたエリアはおじさんがロープを張って戻れないようにする。僕らは追い込み漁にかかった魚のようにだんだんと出口に追いやられていった。結局、内部をゆっくり見ることもできず、10分ちょっとで追い出されてしまった。