イギリスは旨いのだ

第6話 4日目
スワンホテルのチーズパン


 3連泊ですっかり自分の家のようになったホテルを出る日が来た。今日はレンタカーを借りて郊外に出る予定だ。チェックアウトしてしまうと荷物がジャマになるので、まずは近所のどこかで朝食を食べてこようということになった。
 ホテルから少し歩くと、Zamazingoという少し変わった名前のカフェがあった。この店名は何なのだろうと後で調べてみたけれど、結局わからなかった。
 メニューは昨日の朝のカフェと似たり寄ったりで、フル・イングリッシュ・ブレックファーストを構成する面々を様々に組み合わせたものがずらりと並んでいる。適当なセットを、僕は紅茶、ツマはコーヒーと合わせて注文した。
 紅茶はやはり、すでにミルクが入ったお湯にティーバッグが浮かんでいる。この国のティーバッグには紐が付いていないので、適当な所でスプーンですくい上げる。紅茶は少し残念な扱いだけれど、それでもやはりこの国の朝食には紅茶なのだ、どうだまいったかざまあみろとツマに言ったが特に悔しがっている様子もないようだった。
 のんびりと朝食を食べ終わると、ホテルに戻ってチェックアウトし、ディストリクト線とセントラル線を乗り継ぎ、マーブルアーチ駅へ。駅の近くのハーツレンタカーに行き、予約してある旨を伝えると、スムーズに手続きが進んだ。カーナビも予約しておいたのだけれど、店員は「日本語の方がいいかね?」と聞いてきた。そりゃ当然だと答えると、最新版は日本語に対応していない、1つ前のなら対応してたはず…と棚の中をごそごそと探し始めた。しばらく待つとやっと見つかったらしく、これなら大丈夫、という。店員が言語の設定をして、「これ…日本語?」と聞いてくるので見てみたが中国語だった。その後またしばらく探し、もういいよ英語版でなんとかなるよ…と諦めかけたところ、「あった!」とやっと日本語対応版を見つけてくれたのだった。
 やれやれ、と僕らは車に乗り込み、出発しようとした。が、バックギアが入らない。ヨーロッパのレンタカーはマニュアル車が圧倒的に多くて、でも僕は普段からマニュアルに乗っているからね、ぜんぜん問題ないのだよ…とツマに豪語していたが、バックギアの入れ方がわからないのだ。
 慌てて店内に戻ると、店員が別の接客をしている。割り込むのも悪いのでしばらく待っていると別の店員が出てきたので、バックギアの入れ方がわからないのだと聞いてみた。そういう客は多いらしく、店員は「あれは特殊だからねー」と車の所に来て、説明してくれた。シフトレバーのグリップのすぐ下にあるリング上の物が上に動くようになっていて、そのリングを引き上げながらRに入れるのだという。なるほど、この車は6速で、左上にRがあるので、1速に入れるときに誤操作しないようにだろうか。しかしそれならそれでどこかに一言説明があってもいいじゃないか。
 結局、店に入ってから走り出すまで1時間もかかってしまった。時刻はもう11時を回っている。市内を抜けて郊外に出たら、すぐ昼ごはんを食べよう。

 カーナビに今日の宿泊地を設定し、走り出した。イギリスは日本と同じく右ハンドルだけれど、ウィンカーとワイパーのレバーだけは日本とは逆で、最初のうち少しだけ戸惑う。とは言え左側通行なので特に難しいことはなく、カーナビの通りに走ればカンタンカンタン…と思っていたら、曲がる道を間違えてしまい、市場のようなところに入り込んでしまった。カーナビというのはそれぞれ個性があって、ドライバーとの呼吸が合わないとこういうことになる。カーナビは機械だけれど呼吸しているのだ。
 市場は車がやっと通れるくらいの幅で、いや、実を言うと車で通っていい場所かどうかわからない。両側に店が並んでおり、店主および客が不思議そうにこちらを見ている。なんだなんだ、我々の市場に突然アジア人が車で乗り込んできたぞ…と、それはごく当たり前の反応だと思う。やっとの事で市場を抜けると、今度は渋滞だ。平日の昼間だというのになぜこれほど混むのかと思ったが、それが普段の姿なのかはもちろん知らないし、渋滞情報がどこで聞けるかわからないし、とにかく僕らはじっと耐えて少しずつ進むしかなかった。
 しばらく走ると工事渋滞だと言うことがわかった。3車線中、2車線が工事で塞がれていて、これでは大渋滞が起きるのも当たり前ではないか、まったくもう。工事現場を過ぎると渋滞は解消し、快調に走り出したのだった。
 すぐ昼ごはんを食べよう、と重大な決意表明をしてから3時間半。もう14時を回っている。やっとオックスフォード付近のサービスエリアのようなところに着き、昼ごはんを食べることになったが、今日は晩ご飯つきのホテルなので、夕食の時刻も決まっているため、軽く済ませた。

 今夜の宿は、コッツウォルズ地方のバイブリーにあるスワンホテル。このまままっすぐ向かっては早く着きすぎてしまうと思い、少し道をそれ、休憩がてらウッドストックという街に寄った。
 郊外の街を見るのは初めてだ。昨日まではロンドンの荘厳壮麗さすがは大都市といった新旧様々な建物に囲まれていたけれど、ここには古そうな民家がたくさん並んでいる。たまにお店などもあり、少しきれいでピカピカしていたりはするのだけど、やはり基本的なデザインは周りと合わせているので違和感がない。どんよりした空と古びた石造りの建物は、少し寒々しくて寂しいような気もするけれど、これが落ち着きというものなのかもしれなかった。
 この近くにはブレナム宮殿というのがある。世界遺産だそうだけれど、ずいぶんと広いようだ。時間はないけれどとりあえず行ってみようか…と車で向かい、立派な門の近くの駐車スペースのようなところに車を駐めた。さてさてどうしよう、入場料はいったいいくらくらいだろう…と車を降り、見てみると21ポンド(3150円)だった。そんなに時間も取れないし、2人で6千円はちょっとねえ…と引き返そうとすると、チケット売り場の係員が「そこに駐めちゃダメダメ!」と今さら言ってきたので、はいはいもう失礼しますサヨウナラ…と怪しいアジア人達は去って行ったのだった。

 そこからバイブリーまでは1時間もかからなかった。バイブリーは話に聞いていたとおり村全体がハチミツ色…というほどではなかったけれど、さきほどのウッドストックとは違って、川の流れを見下ろすように戸建ての家がポツポツと並んでいて広々している。実に気分がいい。計算し尽くされた、というわけではないだろうけれど、川や橋や道路や、その向こうにある少し大きな家、丘の斜面の家…などが、どんよりとした空の下で、けれどこの村にほんのりとした暖かさを感じさせてくれる。
 川べりや近くの教会を散策し、僕らはホテルに向かった。

 スワンホテルは、創業が1650年という、非常に歴史のあるホテルだ。石造りの建物には蔦が絡まっていて、今は冬だから少し寂しく深い緑の葉に覆われているけれど、季節によっては鮮やかな緑や赤に染まるらしい。古いホテルだから駐車場も小さく、車が溢れている。溢れていてもホテルの前あたりに駐めておけばよさそうだけれど、そのスペースもない。少しだけ隙間があって、こじいれるように車の鼻先を突っ込んでみたけれど、これはどうも無理矢理すぎてドアを開けることもできない。仕方なく、とりあえず少し離れたところ、橋のたもとにある少し広くなっている場所に駐めた。
 ホテルのフロントに行くと、「タナカさん?」と聞かれる。少し驚いたけれど、僕らが今日最後の泊まり客だという。「ところで駐車場がいっぱいだったんだけど…」と切り出すと、フロントの女性は、あらまあ、といった表情を見せ、どこに駐めたかという。「橋の向こう」と切り出すと、安心したように「オーケー、あそこは大丈夫」とのことだったので、僕は安心してチェックインの手続きをした。
 荷物はその女性が運んでくれるという。重くて申し訳ないとは思ったが、僕より体格がいいので問題ないだろう。その女性は僕らを先にエレベーターに乗せた。一緒に乗るのかなと思ったが、先に上がれというので、まだ乗れそうなのになんだろう、このエレベーターは見た目は新しいけれど実は1650年の創業当時から使われていて3人と荷物が載るとブツリとワイヤーが切れ真っ逆さまに落ちてしまうのだろうか恐ろしい恐ろしい…と震えながら2階に上がった。ドアが開くと先ほどの女性がいて、ニヤリと笑った。オウ、ニンジャ!と思ったけれど、あまりに驚いたので声が出なかったのが悔やまれる。

 部屋の中は広く清潔で、昔っぽくはあったけれど古くささは感じなかった。中央に大きなベッドが置かれており、見回すとストライプの壁紙がすっきりとした雰囲気を見せている。壁には薄いテレビが掛けられており、現代的な要素もちゃんとある。窓からはしっとりと濡れた夕暮れのバイブリーが青く透けて見え、窓を1枚の絵画のように見立てる借景というものがあるけれど、イギリスにもちゃんとそういうものがあるのだなあ、と感心した。
 バスルームは、何を考えているのだ!と大きく手を広げて叫びたくなるほど、とても広かった。8畳くらいあるだろうか、バスタブとシャワーブースとトイレと洗面台2個が収まってもまだ布団が2組敷けそうなくらい余裕がある。つまりはここだけで生活できそうだが湿気がすごいだろうなあ。バスタブはその部屋の一番奥にあり、シャワーは一番手前にある。つまり風呂で体を洗ってシャワーで洗い流そうとすると部屋中びしょびしょ泡だらけという状態になる。どちらかしか選べないのだ。どうしろというのだ。
 しばらく休憩したあと、夕食の時刻となったのでホテル内のレストランに向かった。ここは紳士の国なので、レストランにはそれなりの格好で向かう。とはいえそれほど堅苦しく考えることもないので、僕はさっとジャケットを羽織った。
 レストランではすでにほとんどのテーブルに客が座っており、ホテルへのチェックインもそうだったけれど、僕らはやっぱりなんだかいつでも一歩ずつ行動が遅いのだ。
 食事は、月並みな表現で申し訳ないけれどとてもおいしかった。イギリスへ来てからというもの、おいしくない物というと、THE FRYES'S DELIGHTのフィッシュ&チップスしか遭遇していない。しかもあれは実はフィッシュ&チップスではなく中華料理的魚和薯なのだということにすれば、かなりの好成績なのだ。
 メインの料理もそうだけれど、チーズのパンがとても好みの味だった。ご存じとは思うがあちらのレストランはパンが食べ放題で、食事中におかわりをどんどん持ってくる。食べたければ何個でも食べていいのだ。とはいえ一人でチーズのパンを何個も食べると、SNSでチーズパン男として世界中に発信されてしまう可能性がないこともない。僕はぐっとこらえることにした。かわりに、ツマにこのチーズパンの感動的な旨さを伝え、次にパンが回ってきたときには迷わずチーズパンを取るようにと言った。ツマは力強く頷き、パンの到着を待った。
 ところが、次にウェイトレスが回ってきたとき、彼女の持っているバスケットにチーズパンはなかった。ツマは青ざめ、次にホトホトと泣き始め、我が身の不幸を呪った。僕は小刻みに震えるツマの肩をそっと抱きかかえ、「チーズのパンは…、チーズのパンはないのでしょうか」と小さな声を絞り出した。もうSNSで「チーズパン男きめぇw」と晒されようが構わぬ。僕はツマのためにチーズパンを手に入れなければならないのだ。しかしウェイトレスは肩をすくめ、2つ3つのパンをどけてチーズパンを探すふりをしたあと、残念ながらないようだ、と首を振った。レストランは、ツマのむせび泣く声と、周囲の客の嗚咽に包まれた。僕は、なんという悲しい光景だろう、とまるでどこか遠くから見ているかのような錯覚に陥った。現実とは思えぬほどの悲劇に、僕は少し心をここから遠ざけたのだろう。
 しかし、その後しばらくして、僕らがすっかりチーズパンの悲劇を忘れて旨い旨いと肉をほおばっていると、先ほどのウェイトレスが戻ってきた。バスケットには例のチーズパンが入っている。これはどういうことだ!と驚いていると、ウェイトレスはにっこりと笑い、「厨房に1個だけあったのよ」と言いながらパンをツマの皿に置いてくれた。これだ、これなのだ。彼女らはプロなのだ。たとえパン1個でも、客がチーズパンを欲しがっていたら気にとめておいて、厨房でそれを見つけたらすかさずその客のもとに届ける。素晴らしいサービス精神、すばらしいプロ根性。しかし厨房にチーズパンが1個だけあるというのはどういう状況なのだ。料理人が仕事中にお腹がすいたからちょっと失礼…と食べるつもりだったのではないか。あるいはすでに口を付け、囓ったところを奪い取ったのではないか。僕は少し警戒したけれど、見た目は特に問題ないようだった。ツマは念願のチーズパンを手に取り、ひと口ふた口と食べる。「どう?どう?旨いでしょ!」と問う僕に対し、ツマは「うん、まあ」と答えただけなのだった。