イギリスは旨いのだ

第7話 5日目
クリームティとバン


 翌朝、スワンホテルを後にした僕らは、しばらくバイブリーの村を散策した。途中、日本人と思われる観光客を何人か見かけた。なぜか日本人は遠くから見てもすぐわかる。体の縦横比および胴足比、および服装でわかってしまうのだ。僕らもたぶんそうなのだろうなあ。周りを見るとどの家も本当に古くて小さくて、たぶんだけど夏は暑くて冬寒く、だから光熱費も意外とかかってしまい景観が壊れるからと洗濯物も干せず、ずいぶんと不便な暮らしをしているんじゃないだろうか。村全体が観光地と化しているとはいえ見物料を取るわけでもなく、このあたりの住民はどうやって生計を立てているのだろう。やっぱり普段は車で少し離れた町まで行き、近代的できれいな総ガラス張りのビルの12階にあるオフィスで、道すがら買った大きな紙コップのコーヒーなどを飲みながらパソコンを叩いているのかなあ。
 今日は少し北上していくつかの街を巡り、最後にはズイッと南下してバースに行く。この地方は古くて特徴のある小さな街が点在していて、それぞれが見逃せない観光スポットになっている。
 まずは20kmほど北上し、ボートン・オン・ザ・ウォーターという変わった名前の町に行く。変わった名前だけれど、この近くにはクラプトン・オン・ザ・ヒルやストウ・オン・ザ・ウォルドという町もあり、ナントカ・オン・ザ・ナントカという町は他にもいくつかあるのかもしれない。ボートン・オン・ザ・ウォーターに着くと、そこはウィンラッシュ川という幅10mくらいの穏やかな流れの川に沿って家々が並んでいる、とてもきれいな町だった。駐車場はないかなとゆっくり進むとすぐに町を抜けてしまったが、ちょうどそのあたりの路上に車が並んで駐めてあったので、僕らもそこに駐車し、歩いて町に戻った。
 川岸は芝生と並木の鮮やかな緑色で飾られていて、空は曇っていて寒いけれど、のんびり散策するのがとても気持ちいい。川ではたくさんのカモが遊んでいるようだった。それを観光客が嬉しそうに眺めていて、特に何か見所があるというわけではないけれど、こんなふうに大勢の人が呼びよせられて穏やかで楽しい時間を過ごしている。ただの田舎の町と思っていたがなかなか侮れないのであった。
 カモを見ているとなんだかおいしそうに見えてきたので、ややこれはひょっとして腹が減っているのではないかと時計を見ると、やはりちょうど正午になろうというところだった。ツマはクリームティーを食べようという。僕はホイップクリームの入った紅茶のようなものを思い浮かべ、いやいやそんなもので腹がふくれるわけがない、軽い昼ごはんといえどなにか固形のものを食べたいと言ったが、クリームティーというのはスコーンと紅茶のセットで、簡易版アフタヌーンティーだとツマに教えられた。
 ツマが僕を引き連れて向かったのはチェストナット・ツリーという店だった。「栗の木」という名前のその小さな店は、自家製のスコーンが自慢のちょっと知られた店らしい。有名な割には、ちょうどお昼時だけれどテーブルは十分に空いていて、僕らは奥のテーブルを選んだ。
 スコーンと紅茶のセット、つまりはクリームティーのセットを注文すると、当たり前だけれどスコーンと紅茶が運ばれてきた。スコーンには、赤いジャムと白いクロテッドクリームが添えられている。なんだなんだおめでたいじゃないか、なにか祝い事でもあったのだろうかと見回してみたが特に何かを祝っている雰囲気もないので、たぶんいつ来てもこの組み合わせなのだろう。
 このクロテッドクリームというのは特徴的な味があるわけではなくて、軽いバターのようなものだった。ただしそれを焼きたての熱いスコーンにどっさりと乗せて囓ると、一瞬にして溶けたクリームがスコーンの生地の気泡すべてにどどどどどとなだれ込み、あっ、と思う間もなくスコーンの甘みと香ばしさに強烈なコクを加えた正体不明激烈極旨物質となって口内を駆け巡る。スコーンとクリームと紅茶、という単純なランチだけれど、感動的な旨さだ。何度でも言うぞ。イギリスは旨いのだ。

 僕らは小さな土産店で買い物をし、次の町、ストウ・オン・ザ・ウォルドへ向かった。
 ストウ・オン・ザ・ウォルドは、道路が舗装してあり車が走っていることが不思議なくらい、古風な町だった。クシャミを一つした瞬間にパチンと何かがはじけて車がすべて消えてしまったら、ああよかった元に戻ったと安心してしまうかもしれない。それくらい、古い街並みだった。
 ここには、イギリス最古のホテル、THE ROYALIST HOTELがある。ギネスブックにも載っているそうで、創業は西暦947年。1947年でなく、947年。もはや意味がわからないほど古い。さすがに建物自体は1000年前からあるわけではないだろうけれどどうなんだろう。
 古いホテルを含めた街並みを散策したけれど、他には特に見所があるわけではない。僕とツマはなんとなく顔を見合わせて頷き、それじゃあこの辺で…と車に戻り、もう少し北のチッピング・カムデンに行った。
 チッピング・カムデンの駐車場に車を駐めると、ここはどうも有料のようでパーキングチケットを売る券売機があった。1時間で0.5ポンドだからそんなに高いわけではないけれど、なんとなくチッと舌打ちし、1時間分のチケットを買ったのだった。
 ここも同じように古い街並みで、柱と屋根だけの東屋のような歴史的建造物があるが、もう古い物には慣れてしまって、へー、と一言呟いただけで終わってしまった。
 この2つの町には申し訳ないけれど、まあちょっと寄り道したなあという程度の感想を残し、僕らは100kmほど南にあるバースへと走り出したのだった。

 バースというのは、前述したとおり風呂(BATH)の語源になった町であり、巨大なローマ風呂で有名な町だ。ただし着いた頃には18時を回っており、真っ暗だったので観光は翌日にする。
 予約をしてあったのは、アビー(寺院)ホテルという、町のシンボルの一つである寺院を名前にしてしまった大胆なホテルだった。ホテルの駐車場はどこだろうと地図を見ると、なんだか地図が合っていないのか僕らの地図理解力が足りないのか、場所がまったくわからない。あっちだろうかこっちだろうかと走っているうちに路地に迷い込んでしまった。不安が募り、僕とツマはだんだんと険悪な雰囲気になってくる。車内は罵詈雑言が飛び交い、お互いに手相が気にくわないだの爪の色が不健康きわまりないだの中指が少し長いだの、些細なことまで罵りあうようになった。いよいよ本気の殴り合いも覚悟しなければならないな…と拳を握りしめたところで、ちょうどホテルの裏あたりで行き止まりになった。そこに車を置いて行くわけにはいかないので、ツマにホテルまで行き駐車場の場所を聞いてくるように命じると、ツマは渋々トボトボと歩いて行き、しばらくして帰ってくると「よくわからなかった」と言った。
 しかたなく大通りへ戻り、大きな教会の横に何台も路上駐車してあるのを見つけると、そこに車を駐めた。みんなが駐めてるんだからここに駐めていいんだよね、それが欧州道路事情というものだよね、と何度かこういった駐め方をしたけれど、違法路上駐車一斉摘発とかされたら大変困るなあ。
 僕らは急いでホテルに向かう。ぼやぼやしていると一斉摘発されてしまうかもしれないし、車上荒らしに遭うかもしれないからだ。ホテルのフロントで駐車場の場所がわからないというと、フロントの男はあからさまに「なんだよまたかよ」という表情をし、簡単な地図を書いてくれたのだった。結局その地図はいいかげんで役に立たなかったけれど、さっきの教会のすぐ手前にある駐車場を使うのだということがわかり、やっと落ち着いてチェックインすることができた。
 まずは部屋に荷物を置き、食事に出なければならない。ところがこのアビーホテルは増築改築をいいかげんに繰り返したのか、部屋に辿り着くまでエレベーターに乗ったり階段を登ったりと複雑な作りをしている。部屋に入ると部屋の中にも坂があり、どうにも行き当たりばったり感が強い。昔、出張で行った函館で、部屋の真ん中に柱があり、ベッドに腰掛けてテレビを見るのに身を乗り出さないといけないようなおかしなホテルに泊まったことがあったが、部屋の中に坂道があるのもなかなか出会うことのない珍しいホテルじゃないか。
 ホテルの近くに、サリー・ランズというレストランがあるという。ここはなかなかの有名かつ人気店で、ガイドブックにも載っているうえに店自体が小さいから僕らが行ったときにはすでに満席だった。行列はできておらず、ちょうど満席なのだ。なんという不運。聞いてみると、30分ほど待ってくれという。僕らはお腹がすいていたので、そんなに待ってられるかいケッ、と他の店を探すことにしたのだった。けれど、他にはパッとした店がない。仕方なくサリー・ランズに戻った。  店のおばちゃんはとても優しそうな人で、30分後に予約を入れられるかいと聞くとにっこり笑って頷いた。名前を聞かれたのでタナカだと答えると、笑顔のままだけれど少し困ったような顔をしてペンを止めてしまった。日本ではウンザリするくらい多い名字でも、イギリス人にはスペルすらわからないのだ。ティーエイエヌエイケイエイ、と言うとおばちゃんは、なんだそのまんまじゃん、とスラスラと予約リストを書き上げ、30分後に待ってるわねと僕らを見送ってくれたのだった。
 いったん部屋に戻り、ガイドブックなどを読みながら30分を過ごす。なにせ僕はほとんど観光の知識を持たずにイギリスに来ているのだ。なるほどさっきの店がガイドブックに載っている。ほう、あのレストランはガイドブックに載っているねえと言うと、だから行ったのだとツマは冷めた口調で返したのだった。僕は、ただクゥとお腹を鳴らしたきり、何も言えなくなってしまった。
 きっちり30分後にサリー・ランズに戻る。日本人は几帳面なのだ。窓際の席に案内されると、メニューを持って来たウェイトレスが「日本の方ですよね?」と日本語で話しかけてきた。一昨日のレストランに続いて2回目だ。ははあ今イギリスでは空前の日本語ブームであり日本人を見るとつい日頃の勉強の成果を試したいのでとりあえず声を掛けるのだな、と思い「ハイ、ソウデス」とまたカタコトで答えた。しかし今回は相手がずいぶんと流暢なのでこれはまじめにしっかり勉強しているのだな、と感心しつつ顔を見るとどうも純粋な日本人のようだった。僕らは異国の地ではたった2人で身を寄せ合って、ほら周りは外国人だらけだよ、何を言っているんだ我々が外国人なのだ、そして誰も我々のことを知らず、これからも知られずにひっそりと生きて行くのだフフフ…と過ごしていたいので、あまり日本人とは会いたくないのだ。けれどそんな理由で店を出るのもいささかばかばかしいので、適当に話を合わせた。そんな僕らの気持ちを察したのか、彼女はメニューを渡したきり二度と現れなかった。日本人は空気を読んで気を利かせるのだ。どうだまいったか。
 この店の名物は、バンというパンだ。ランチタイムはこれだけを食べたりテイクアウトしたりするらしいけれど、ディナーでは皿にバンを置き、その上に煮込んだ肉や付け合わせを乗せる、というびちょびちょハンバーガーのような食べ方をする。それとサラダとワインを注文した。僕らの食事は酒がなければ始まらず終わらないのだ。
 バンがすでに皿に投入されているため、この料理は一皿で完結している。肉とバンを同時に切ってほおばるのだけれど、バンはソースに浸されてフヤフヤになっており、特に味が付いているわけではないので存在感がなく、3口目くらいにはその存在を忘れ、ただワインを飲み肉を食べているだけになってしまった。旨いことは旨いが、まあ名物を食べておいてよかったね、という程度の感想を持った。
 1時間ほどで食事を済ませた後、ホテルに戻ろうとするがなんとなく飲み足りない。するとうまい具合にホテルの入口のすぐそばにエールハウスというパブがあったので、立ち寄った。イギリスの旨いビールで、その日を締めたのだった。