最終日 宮崎〜熊本


 ゆうべから覚悟はしていたけれど、どうにも複雑な気分で、僕は目を覚ました。やはり最後の朝というのはすっきりと目覚めることはできない。もっと旅を続けたいし、早く家に帰りたい。自分の気持ちがどこかを勝手にふらついているような、とらえどころのない不安感に、僕はいつも惑わされてしまう。
 かと言って、いつまでもぐずぐずとベッドに埋もれていることもできない。帰りの航空券はすでに手元にあるし、明日からは仕事だってある。僕は、思い切って起きあがった。
 荷物の整理は、ゆうべのうちに済ませてある。最後の朝はぐずぐずするに決まっているから、荷物の整理は最後の夜の儀式になっている。すべての荷物をベッドに並べ、またきれいに詰め直す。だから、最後の朝は身支度を整えるだけで出発できる。
 だから、今朝はいつもより早く、8時半に走り出した。

 1時間ほどで、宮崎市近郊の、綾という町に着いた。ここには、歩道吊り橋としては高さ世界一という吊り橋がある。いちばん高いところで142m、長さ250mとなっているからそれはもう高い。高いところは少し苦手だけれど、せっかくなので渡ってみることにした。
 吊り橋は、とてもしっかりした作りで、ほとんど揺れなかった。足下も、橋の真んなか付近の数カ所の格子を除いて金属板でできており、下をのぞき見ることができない。少し物足りなさを感じながら、反対岸まで渡った。
 反対岸には、なにがあるわけでもない。そこからは、遊歩道が始まっている。照葉樹林遊歩道の出発点として、吊り橋があるだけなのだった。引き返すか、そのまま遊歩道を歩くか、僕はさんざん迷った。しかし、遊歩道の先にはもうひとつ小さな吊り橋がある。その吊り橋から、今渡った橋を見上げる写真が撮りたかったので、僕は遊歩道を行くことにした。
 夏休み期間とはいえ、平日の午前9時すぎ。他に観光客は誰もおらず、僕は遊歩道をひとりきりで歩き続けた。ぬかるんだ道を上り下りする、かなりきつい遊歩道だった。橋を渡っている間、日差しはとても強かったが、森の中に入ると陽は遮られ、心地よい程度の木漏れ日が降り注いでいた。そのかわり、湿度はさらにあがったようだ。不快指数計があったら、きっと針は振り切れてしまうだろう。
 しばらくすると、小さな滝が現れた。滝壺からは沢が始まっており、歩道と沢は何度か交差しながら下っていった。うるさいほどの蝉の声は、しばらくは沢の流れにかき消されていたが、やがて沢が落ち着くと、またじいじいと辺りに響いた。この旅で何度か沢沿いを歩いたが、せせらぎと蝉の声はとても上手に共存できている。両方がうるさかったらそれはもう耳障りだろうが、音の性質が似ているせいだろうか、沢を歩くとある瞬間見事に入れ替わり、どちらか片方だけが聞こえるのだった。
 30分ほど歩き、やっと小さな吊り橋にたどり着いた。見上げると、秋の訪れを感じさせるウロコ雲が空のかなり高いところに浮いており、それを背景に大きな吊り橋がこれもまた浮いているように見えた。僕は何枚か写真を撮ったが、予想通りの構図だったためかどうにもつまらない写真になってしまったようだ。
 さて、こんどは駐車場までひたすら上らなければならないらしい。昨日に続いて、今日もまた汗だくになって山道を歩き回ることになってしまった。下り坂というのは、目の前が開けているため、わりと気分が楽だ。しかし上り坂となると、どうしても前屈みに、足下だけを見ることになってしまい、とてもつらい。
 1時間近くも歩いて駐車場に戻った時にはさらに日差しが強くなっており、僕は狂ったように水を浴び、飲んだ。

 すぐに動き出すことはできなかった。僕は、昼ごはんをどこで食べるか、地図とガイドブックを開いた。まだ10時を回ったところだが、今すぐにでも何か食べたい気分だった。
 どうやら、この山を下りたあたりではうどんが名物らしい。きれいな湧き水を使った、手打ちうどんの店が何件もある。僕は、そのなかの「豊水(とよみ)うどん」を選んだ。いちばん具だくさんだったのだ。運動して、腹が減っていたんだから具だくさんなうどんを選んだのも当然だろう。
 カーナビを設定し、山道を下り始めた。そこかしこで工事が行われていて、そのたびに片側通行となって待たされる。うどん屋まで、僕のおなかは持つだろうか? 僕は、半分本気でそんなことを考え始めていた。

 11時半頃店に着いたが、平日の昼間ということもあってわりと広い店内には2組程度の客しかいなかった。メニューを開くと、例の具だくさんな「豊水うどん」の他に、同じ具の「豊水そば」というのもあった。僕はそば好きなので、うまいそばがあるならそばを選ぶつもりだった。そこで店員にどちらがお奨めか聞いてみると、店員は迷わずうどんだと答えた。店の名を冠したうどんに、店員はかなり自信を持っているようだった。ならば、そばを選ぶ理由はない。今度は僕も迷わずうどんを注文した。

 ほどなく、うどんが運ばれてきた。おにぎりが一個、添えてある。お新香のたぐいは、レジ横の保冷棚から勝手に好きなだけ自分で持ってくるというすばらしいシステムだった。
 僕はまず、つゆをすすった。うまい。関東風の醤油味も好きだが、うどんに関しては関西風のダシ味もまぁ悪くない。次に、うどんをすすった。ぐいっと噛むとほんの一瞬強烈に抵抗し、かと思うとぷつっとはじける、コシのあるうどん。を、期待していたのだが、これがまったく予想外だった。コシのないうどんを、さらに茹ですぎてしまっているようだ。まるで、給食のソフトめんのような食感だった。こうなると、どんぶりに浮いたたくさんの具が、ごめんなさいね、たくさんおまけしてあげるからね、許してね、と言っているように思えてくる。おとといのそばといい、どうも、九州というのはラーメン以外の麺に関しては残念な地域らしい。博多のラーメンは本当にうまいのだが、うどんもそばもラーメン勢の圧倒的な攻撃力にひとたまりもなく退散退散といったふうである。
 やはり、ガイドブックというのは信用できない。こういうのは、たまたま入ってたまたま注文したもののほうが、うまい確率が大変高い。
 僕は、傍目から見てもはっきりとわかるくらい明らかにがっかりしつつ、店を出た。

 あとは、熊本に戻るだけとなる。空港までは150キロ、夜までに着けばいい。あちこち寄り道しながらでも十分間に合うが、地図を見てもイベントになるようなものは見つからなかった。
 熊本空港にナビを合わせ、その通りに走った。山は、どことなく秋を迎えつつある雰囲気だった。高い空に、木々の緑が映える。この奥行き感が、秋を思わせるのかもしれない。昨日か、少なくとも一昨日までは、山は間違いなく夏だった。たった1日かそこらで季節が変わりつつあることに、僕は少しだけ焦りを覚えた気がした。

 なんということもない無難な山道ばかりで、さすがに運転にも飽きた頃、道ばたに、球泉洞という鍾乳洞の案内が出始めた。鍾乳洞。僕は、わりと鍾乳洞好きだ。鍾乳洞は割と入場料がかさむのだが、休憩がてら入ってみることにした。入場料1050円を払い、示された方に目を向けた。そこには、トンネルがあった。僕は、いやな予感がした。結構あちこちの観光鍾乳洞に入った経験から、その入り口を見ればなんとなくわかってしまう。この鍾乳洞は、ひょっとしたらハズレかもしれない。
 思った通り、この鍾乳洞はおもしろくなかった。内部は狭く、ホール(広間)がない。だから、どうしても単調になってしまう。ところどころ鍾乳石などがあるが、金網に囲まれ、どうにも迫力がない。結局、入場する際には往復30分くらいかかると言われていたが10分たらずで出てきてしまった。

 球泉洞を過ぎると、まもなく町に降りてきた。時間を計算して、さらに寄り道をするかどうか考えながら走っていると、道の駅があった。道の駅は、時間をつぶせるだけでなく、時には土産物も見つかる。しかし、運の悪いことに今日は休業日となっていた。
 僕は、道の駅の駐車場で地図を広げた。今度こそ、熊本空港までもう何もない。かといって、このままでは時間が余りすぎてしまう。悩みに悩んだ結果、少し早めの晩ごはんを食べることにした。熊本ラーメンというのが気になって、ガイドブックのそのページだけをコピーして持ってきていた。そのなかから、一番おいしそうな「黒亭」という店を選んで、向かった。定休日は木曜となっている。今日は水曜、問題ない。到着は17時頃になるが、ラーメンなら問題なく食べられるだろう。
 僕は嬉々として熊本市に向かった。途中、見事な虹が空に架かった。こんなきれいな虹を見るのは何年ぶりだろう。しかも、虹の根もとは今まさに向かっているラーメン屋の辺りだ。すべてが、今日の晩ごはんのラーメンを祝福してくれている。なんだかよくわからないが、そんな気がした。
 熊本市に入ると、さすがに車が増えてきた。しかし、渋滞というほどでははい。狭い路地も、ナビのおかげで迷わずにすすんだ。ほどなく、目当ての「黒亭」を見つけることができた。しかし。店先には、「定休日」という立て看板があった。僕は目を疑った。しかし、本当は営業中だが、誰かがいたずらで看板をひっくりかえした、というのではなく、どう見ても確かにきっぱりと定休日だった。
 僕はたぶん今回の旅で一番大きなショックを受け、立ち直るまでに相当な時間を要した。けれど、しかたない。もう一件の「こむらさき」というラーメン屋を探して、向かった。
 しかし、この選択は間違いだった。熊本城前を通る道はちょうど夕方の帰宅ラッシュと重なったのか尋常じゃないほど混み、車はほとんど動けなかった。しかも店はアーケード商店街の中にあり、車で近づくのは難しい。2キロ程度の道を30分かけて進み、運良く1カ所だけあいていたコインパーキングに入り、店を探した。
 運が悪いときほどではないが、運がいいときというのは幸運が重なるものだ。店は、コインパーキングから20メートルほどのところにあった。店の雰囲気も、入りやすそうだ。僕は店に入ってチャーシュー麺を注文した。

 あまり思い出したくないのだが、いちおう記録として書いておく。大した特徴もなく、つまらないラーメンだった。チャーシューも固く、スープもコクがない。店の歴史は古いようだが、それだけだ。歴史の上にあぐらをかいてしまっている感がぬぐえない。
今日、(食べ物だけでも)2度目のがっかりだ。

 店を出て空港に向かうが、渋滞はさっきよりもひどくなっているようだ。とにかく、進まない、動かない。市内の道は、とても狭かった。全体の道幅はわりと広いのだが、真ん中に路面電車の線路を敷き、両橋にバス専用車線を設け、残った部分は片側2車線となっている。1つの車線は、ちょうど車1台分の幅しかない。ちょっとでも運転を誤れば、隣の車にこすってしまう。
 路面電車もあり、かなりの台数のバスが走っている。それなのに、なぜこんなに車が多いのか。とても不思議な光景だった。とにかく、密度が高い。
 やっと渋滞を抜けると、空港までは快適な道になっていた。横を見ると、山々がきれいな夕焼けに彩られている。昨日もそうだったが、ここで夕焼けに出会えるのは本当についている。もし一件目のラーメン屋が営業していたら、もし道が混んでいなかったら、この光景を見ることはできなかっただろう。なんだか、最後まで夕焼け運だけは強かったようだ。

 この夕焼けに見送られて、僕の旅は終わった。
 車を返し、空港に向かう頃にはもう空は深い紺色になっていた。本当に、本当にきれいな一瞬で、僕は見送られたのだった。
 空港の出発ロビーの窓から、もう一度、真っ暗になった空を見上げた。少し目が潤んだような気がしたのは、決して気のせいではなかった。