肉とビールの大ドイツ
第2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
11時30分発の全日空NH223便は、12時間のフライトを終えて7時間の時差を遡り、16時30分にフランクフルトに到着した。12時間というとずいぶん長いように感じるけれど、東京博多を結ぶ高速バス「はかた号」に比べれば2時間も短いのだ。さらに機内で見られる映画などが充実していて、おまけに昼の便なので「今日は一日が長いなあ」という程度ですむ。
入国審査は簡単で、ほとんど質問されることはない。ガイドブックにはそう書いてあって、入国カードの記入なども一切不要だったので、ドイツとはそういう国なのだなあ、と安心して入国審査の列に並んだ。
並んでいる間に、スマホをモバイルWiFiに繋いでみる。今回は現地で存分にネットを活用しようと、レンタルしてきたのだ。今までは海外では全くネット環境がなかったり、マクドナルドのフリースポットで帰りの便の席を予約したりしてきたけれど、今回は日本国内と同じように情報を集めたり、リアルタイムでブログを更新したりできるのだ。素晴らしいじゃないか。
ということは、だ…! もし今、なんとなくAmazonで買い物なんかしちゃうと、約9千キロ離れた留守の自宅に荷物が届くのだ! そしてさらに宅配便のもの悲しげな不在メールがドイツに送られてくるのだ! 留守に決まってるじゃないか僕は今ドイツにいるのだ、どうだ参ったか!
ネットに繋がったことでムフームフーと極度に興奮していた僕は、あまり列が進んでいないことにやっと気づいた。見ると入国審査にずいぶんと時間をかけているではないか。身振り手振りを交えて必死の形相で何かを訴えているオトーサンと、何の権利があってそんなに睨むのだと言いたくなるような眼光鋭い入国審査官の対決は実に見応えがあった。オトーサンは汗だくになりながらパスポートを指さしたりして何かを説明している。審査官は瞬き一つせずオトーサンを睨みつけている。まるで巨大なラスボスにレベルの低い勇者が木の剣で戦いを挑んでいるような入国審査だ。しかしやがてラスボスは小さく頷き、勇者オトーサンのパスポートにスタンプを押したのだった。
実はこの数週間前に、ドイツがシリアからの難民を受け入れるという話になったので、移民・難民がどどどどどとドイツに押し寄せているということもあって、特に慎重に審査を行うように…という指示が出ていたのかもしれない。
これはえらいことになったぞ…と隣の列を見ると、いくぶん進みが早いようだった。早いということは一人当たりの時間が短く、つまりは質問されることも少ないのだろう、と僕らは列を移った。
やがて僕らの番となったが、聞かれたのは今日これからどこに行くか、何日滞在するか、どこから帰国するのか…という、少しだけ細かいけれど一般的な内容だった。ではあの勇者オトーサンは何をあんなに必死になって説明していたのだろう、と考えたけれど、やはりあの列の審査官が几帳面で厳しかったのかも知れないし、オトーサンの国籍やこれからの旅程によっていろいろなのだろうな、と深くは考えないことにした。
なんにしろ、最初の難関を乗り越え、僕らはとうとうドイツに入国したのだった。
フランクフルト空港からは電車でマインツに向かう。一般的にはフランクフルト空港に着いたらそのままフランクフルト市内に宿泊するのだけれど、僕らは翌朝ライン川下りに行く予定なので、マインツに移動しておいた方が近くて便利なのだ。
電車に乗るには、あたりまえだけれど切符を買わなければならない。切符売り場というものは特になく、券売機がコンコースのあちらこちらにポツポツと置いてある。一箇所にまとめたほうが買う側も売る側も効率がいいと思うのだけれど、なぜかあちらこちらに置いてあるのだった。当然、それぞれの券売機には、今空港に着いたばかりの旅行者たちが群がっている。
僕らはそのうちの1台の前に立ち、とりあえずはタッチパネルを操作して英語モードに変更。行き先一覧からマインツを探した。ところがどうしたことか、MAINZが見つからないではないか。あれあれ…と戸惑っているうちに後ろに人が並んでしまい、プレッシャーに負けて券売機から去った。初戦は完敗であった。
僕とツマは緊急会議を開いた。その結果、ドイツの鉄道にはREとかSバーンとかUバーンとかいろいろあるので、たとえばJRと都営地下鉄では券売機が違うように、この券売機ではマインツ行きの切符が買えないのではないか…ということになった。ならばどこでマインツ行きの切符が買えるか聞けばいいのだ、と振り返ると、先ほどまでドイツ鉄道の職員らしき男性がいたカウンタは閉まっており、代わりに本日の営業は終了しましたといったメッセージボードが留守番をしていた。ドイツ鉄道はいったい何をやっているのだ。これだけ駅に人が溢れていて、国際空港の駅なので当然ドイツに不慣れな人もたくさんいるだろうに、なぜもう閉めてしまうのだ。まだ18時前ではないか。
仕方なく、ひょっとしたらホームに行けば間違いなくその電車の切符が買えるのではないか、と僕らはホームに降りていった。そこには確かに券売機があったけれど、それは先ほどと同じ機械で、つまりは機械に問題があるのではなく、僕らに問題があるのだなあ、ということがわかった。
もう一度最初から…と画面を操作すると、行き先ボタンの中からツマがMAINZの文字を発見した。1つのボタンに複数の行き先が書いてあって、見落としていたようだった。よかったよかった、とボタンを押すと、今度はなんだかわからない画面になった。よく「頭の中が真っ白に」という表現をするが、よく言ったものだと思う。まさに僕の頭の中は真っ白になり、再び券売機から去ることになった。第2戦は、善戦したとは思うが、やはり内容的には完敗であった。
数人が何事もなく切符を買って行くのを羨ましげに見送った後、再び挑戦。今度は、行き先を選ぶのではなく、キーボードから入力してみる。ところが、MAINZ、と入力すると勝手に「MAINZ-」となった。まいんつーとは何なのだ、と画面を見ると、左側にボタンがいくつか現れた。マインツに行きたいのに、勝手に「まいんつー」となってしまい、いろんなボタンが表示されるのだ。どうしろというのだ。しかしここで引き返していたらいつまでも切符が買えず、フランクフルト空港のなかで一生を終えることとなってしまう。僕はカッと目を開き、左側に現れたボタンを見た。すると、「HAUPTBAHNHOF」のボタンがあるじゃないか。これは「中央駅」を表す言葉だ。つまり例えるなら、「松戸」と入力したら「松戸」「北松戸」「東松戸」「新松戸」が選べるボタンが表示されたということだったのだ。僕は意気揚々と「松戸」もとい「HAUPTBAHNHOF」のボタンを押した。いいぞいいぞ、切符の種類を選ぶ画面に進んだ。1回乗車なので、「Single Journey」「Adults」を順番に選択。ここで2人分の切符を…と思ったが、枚数を選ぶことはできないようだ。最後にルートを選べという。フランクフルト経由が8.10ユーロ、読めない地名経由が4.55ユーロ。とりあえずフランクフルト経由でないことは明らかなので、安い方を選ぶ。するとやっと支払いの画面に辿り着いた。やっと切符を手に入れることができるのだ。僕とツマは泣きながら抱き合い、どうもクレジットカードは使えないと表示されていたので10ユーロ紙幣を差し込んだ。第3戦にして、やっと勝利をもぎとることができた…と思ったが、紙幣が吸い込まれない。画面には確かにコインか紙幣で払え、でもクレジットカードはダメよと書いてある。僕らはまだドイツに着いたばかりで、コインは以前オランダに行ったときの残り、数ユーロしか持っていない。券売機側の反則すれすれのプレーで、僕らは第3戦も負けてしまったのだった。
なぜだ、なぜ紙幣が使えないのだ…と途方に暮れていると、地元のおばちゃんと思われる女性が同じように紙幣を受け付けてもらえず、首をかしげている。ということは、方法は正しいがこの機械がおかしいのだろう。
ホームからコンコースへと上がり、券売機が何台か並んでいるところに行く。そこはまさに阿鼻叫喚、使えないクレジットカードを振りかざし格闘している者や20ユーロ紙幣を握りしめて10ユーロ紙幣しか使えないのだと泣き叫ぶ者、何をどうしたらよいかわからず複数の券売機の前をただ右往左往する者…。そして床には、切符が買えないままとうとう力尽きたのだろう、何人もの旅行者の屍が横たわっていた。
そこに僕が現れる。その目はギラリと冷たく光り、まっすぐ券売機を見据えている。その気配に周囲の旅行者は言葉を失い、コンコースは静寂に包まれた。ザッ、ザッ、ザッ、と僕は券売機に向かう。もちろん床は土や砂ではないのだけれどイメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ。やがて券売機に対峙すると、その男は、つまり僕なのだけれどその男は、触れただけでも投げ飛ばされそうなほどの殺気を帯びたその姿とは対照的に、ひらりひらりとノクターンを奏でるピアニストのような手つきでタッチパネルを操り、いともたやすく支払い画面に辿り着いた。
あとは紙幣を挿入するだけだ――。誰もが、その男がまもなく切符を手にするのだろうと思ったに違いない。しかし男は逡巡しているようだった。
「どうしたの? 早く紙幣を入れないと…」
ツマもとい女は心配げに首をかしげた。このままでは時間切れとなってしまい、やっと辿り着いた支払い画面が閉じられてしまうことを知っていたのだ。
「…ああ、そうだな」
男は少しためらってから、女に笑顔を向けた。しかしそれは、とても悲しげな笑顔だった。女は困ったように軽く下唇を噛む。そうして自分のサイフから10ユーロ紙幣を取り出すと、券売機に挿入しようとした。
「あなたは、なんでも一人で背負いすぎるのよ。たまには私を頼ってもいいのよ?」
「そんなに手を震えさせて、頼れもないもんだ」
「これは…。だって、初めてだから」
二人は、ほんの一瞬だけ目を合わせると、どちらからともなく微笑みを浮かべた。
「お前に頼るのは、また今度にしよう。…これは、俺の仕事だ」
男はそう言うと、紙幣を券売機に挿入した。もう、迷いはなかった。
やがて取り出し口に切符が吐き出された。男はその紙片をつまみ上げ、天高く、まるで神々に知らしめるかのように天高く、掲げたのだった。
こうしてマインツ行きの切符を買うまで30分近くかかってしまった。ドイツはちょっとしたことでもとんでもなくハードルが高いのだった。
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