肉とビールの大ドイツ
第6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
3日目、9月18日の午前8時。荷物をまとめ、マインツのホテルを出る。駅前のバス乗り場は、これから会社や学校に向かう人々で賑わっていた。そういえば今日は平日だったな、とあらためて思う。
今日は都市間特急列車ICEに乗るが、乗車券はすでに日本を発つ前にネットで予約済みだった。切符はなく、印刷した予約書と本人確認用のクレジットカードを車掌に提示すればいいのだそうだ。発券処理がいらないぶん、日本の新幹線より楽なのだけれど、業者を通して予約すると数千円の手数料を取られてしまうそうだから商売というのはわからない。
ホームに行き、では乗車位置で待機していようじゃないか、と思ったが新幹線のようにホームに何号車という表示がない。掲示板の張り紙に乗車位置の案内があることに気づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。乗車位置には、僕らと同じく、大きな荷物を持った人がたくさんいる。みんな、ケルンやデュッセルドルフ、あるいは国境を越えてオランダのアムステルダムまで行くのかもしれない。
列車は定刻通りやってきた。いろいろ言われてはいるけれど、ドイツ鉄道はやっぱり優秀なのだ。車両には号車番号が表示してあり、やがて僕らの乗る7号車やってきた。それにしてもなんだかやけに速度があるなあ…と思っていると7号車はそのままするすると進んでしまい、僕らを取り残して行ってしまった。しまった、なんだかわからないが間違えていたらしいぞ…とスーツケースを引きずりながら走り出すと、周りの人々も同じように慌てて走り出した。運転手が勘違いしたのかホームの表示が間違っていたのか、とにかくみんな騙された騙されたと必死に列車を追いかけるのだった。何をしているのだドイツ鉄道、しっかりしてくれ。
ともかく列車に乗り込み、席に着く。ガイドブックによると、予約されている席には予約区間の表示があり、その区間以外、あるいは予約表示のない席は自由席として使っていいのだそうだ。さすがドイツ鉄道、非常に合理的ではないか。僕らの席にもちゃんと予約区間を書いた紙片が掲示してあったけれど、そこには9号車と書いてあった。わけがわからず車両の入口に戻ると、やや大きな文字で7と書いてある。混乱した僕は、通りがかった車掌に席がわからないのだと言った。
車掌は、ふん、と一つ鼻を鳴らすと無言で歩き出し、先ほど僕らが座ったところを指さした。いやいや何を言っているのだ、この紙片には9号車と書いてあるではないか、と言ったけれど、車掌はオーケーオーケーと言って去って行った。何がオーケーなのだドイツ鉄道、しっかりしてくれ。
多少の不安はあるものの、車掌が言うのだから間違いないだろう、と少し落ち着きを取り戻し、僕らは流れゆく車窓を楽しむことにした。列車は昨日船で下ったライン川に沿って走り、いくつかの町といくつかの駅を通り過ぎる。約2時間の間、僕らはガイドブックを眺め、ケルンとはどういう街だろう、と今さらながらのんびりと話していた。
切符がわりの予約書によると、ケルン到着予定時刻は10時20分。10時を過ぎたあたりで、着く前にトイレに行っておいた方がいいかな、と思いつつ何気なく出発前に駅で撮影しておいた時刻表を眺めた。するとどうだろう、ケルン着10:05と書いてある。そんな馬鹿な、とタブレットの地図で現在位置を確認すると、確かにもうケルンに着こうかというところだった。僕らは大いに慌て、大変だ大変だと急いで荷物をまとめた。トイレなどに行っている場合ではなかったのだ。ワイヤーロックで厳重に固定していたスーツケースを棚から下ろす。なんとか間に合ったぞ…と一息ついたが列車が減速する様子はない。結局5分ほどそのまま待ち、やっとケルンに到着した。予約書では到着時刻が10:20となっており、駅の時刻表では10:05となっており、実際に到着したのは10:10。どういうことなのだドイツ鉄道、しっかりしてくれ。
ケルンの駅はマインツとは大違いで、大勢の人々が行き交い、大小様々な店が並んでいる。そこにはもちろんヴルスト屋もあり、店員がさあいつでも来やがれ旨いブラートヴルストをお見舞いしてやるぜ、と仁王立ちでこちらを睨んでいる。もっとにこやかに柔らかく立っていれば客も寄りやすいと思うのだけれど、彼にとってはこれが戦いなのだ。負けられないのだ。
駅構内には、きれいな有料トイレがある。ドイツではトイレはたいてい有料だと聞いていたけれど、実際に有料トイレを見たのはそこが初めてだった。トイレの入口には自動改札が設置されており、1ユーロ(130円)を投入すると中に入れる仕組みになっている。トイレに1ユーロとは足もとを見やがって、と少し憤ったけれど、だからといって入らなければ、やがてその足もとがびしょびしょになってしまうのだ。しかたなく、ツマと交代で荷物番をし、計2ユーロを支払ったのだった。自動改札の手前では、やはり有料トイレに慣れていないアジア系の数人の旅行者が、なんということだトイレに入るには1ユーロも払わなければならないのだ、と途方に暮れていた。そのトイレはなんだか清掃スタッフがたくさんいて、この人たちを少し減らせば50セントくらいで入れるようになるのではないか、と感じたがこれも雇用を生みだす策の一つなのだろう。
駅構内にあるレンタカー屋に向かう。とはいえ詳しい場所はわからず、適当に歩いているとエイビスの看板が目に入った。早速手続きを進める。車は、セアト・トレドという、後で調べてみてわかったのだけれどスペインのメーカーの車だそうだ。せっかくなら名の知れたドイツ車を…と思っていたが、車種は選べないので仕方がない。
事前にネットで予約をしていたので手続きに困ることはなかったが、いつも使っているクレジットカードが使えない、と言われてしまった。「ELECTRIC USE ONLYと書いてあるカードは使えないのよ」と店員がカードを指さした。カード番号が浮き出ていないものは使えないらしい。どうもドイツはクレジットカードがあまり浸透していないらしく、まったく使えなかったり、使えても制限がある場合が多いのだそうだ。僕は仕方なく別のカードで支払いを済ませたが、マイルの貯まらないカードだったので非常にもったいない気がした。
「駐車場の場所はわかる?」と聞くが、知っているわけがない。すると店員は少し面倒くさそうに奥に引っ込み、プリントアウトされた地図を持ってきた。そこに置いてあるから勝手に乗ってってくれ、というのだ。ずいぶん不親切でいいかげんだ、とは思ったが、それだけレンタカーがあたりまえの存在なのかもしれなかった。
地図に従って駅を出たが、駐車場らしいものはない。地図によるとこっち…と歩くと、地下駐車場の入口があった。果たしてこれだろうか、と確信が持てないままエレベーターで降り、指示された番号に向かうと別の車が停まっている。これはおかしい、ともう1フロア降りたが、探している番号は見つからなかった。仕方なく地上に戻り、さてこれは困ったぞ、と見回すと、少し坂を下った先にも駐車場がある。そこに探している車があった。
その車は黒のセダンで、とてもスマートな車体だった。これならアウトバーンを安心して疾走できるのではないか、と感じさせる。とりあえず荷物をトランクにしまおうとしたが、トランクの開け方がわからない。運転席のどこかにレバーがあるのでは…と探したが見つからない。これは困ったぞ、いったいどこをどうしたら開くのだ…と何気なくトランクに取り付けられた車のロゴマークを押すと、それがドアハンドルになっていた。なぜこんなカラクリ箱のような仕組みにするのか。まったくレンタカーには不向きではないか。
トランクは十分広く、スーツケース2個が入ってもまだ余裕がある。端には非常用のオレンジ色のベスト備え付けられており、非常時にはこれを着てタイヤ交換などをするよう携帯が義務づけられているのだろうと思えた。
時刻はもう11時半で、そろそろ出発しなければならない。僕らは左右を間違えることなく車に乗り込み、ナビの設定をする。なかなか出来の悪いナビで使い勝手が悪かったけれど、無いよりはマシ、と我慢することにする。
今日はまずケルンの西のアーヘンに向かう。アーヘン大聖堂はドイツで最初の世界遺産で、見逃すわけにはいかないということもないけれど、行けるなら行っておきたいところだ。その後はケルンに引き返し、ホテルに車を駐めてから徒歩でケルン大聖堂に向かう。この順番を間違えるととんでもないことになってしまうという。あまりに大きいケルン大聖堂を見た後だと、アーヘン大聖堂は、たとえ1200年の歴史があるといっても、たいそうショボく見えてしまうのだそうだ。
慣れるまで少しかかるかな、と思っていた左ハンドルのマニュアル車だけれど、乗ってみると意外にも違和感はなく、右手でのシフト操作もまったく特別な意識は必要なかった。日本で予約するときは、心配だからオートマにしておこうか、いややはりヨーロッパだからマニュアルが…と悩んだけれど、マニュアルにして正解だったな、とニヤニヤしてしまう。
ケルンの郊外を20分ほど走ると、少し広く、両端に家などがない道に入った。おやおやこれはずいぶんと走りやすい道だな、と思ったのもそのはずで、これがかの有名なアウトバーンだったのだった。速度無制限と聞いてはいたけれど、みんな120km/h程度で走っているようだ。なんだたいしたことはないな、と流れに乗ってアーヘンに向かう。
青い空はずいぶんと遠くまで広がっていて、密度の濃そうな雲が低くあちこちに浮いている。実にヨーロッパらしい空で、ドライブ初日としては上出来すぎるくらいの景色が広がっていた。
1時間ほどでアーヘンに到着。駐車場を探してしばらくウロウロし、路肩が駐車スペースになっているところがあったのでそこに駐めた。無料かなと思っていたけれど、道の入口あたりに何か機械がある。これはなんだろう、とスマホで翻訳してみると駐車チケット販売機だったので、あぶないあぶないここは実は有料だったのだ…とチケットを買う。90分で2ユーロ(260円)だから安いものだ。
大聖堂に向かう前に、TEDIという、何でも1ユーロで売っている店に寄った。ツマがベルトを忘れてしまい、ジーンズがずり落ちてきてしまうのだそうだ。ついでに僕のメガネケースも購入した。長時間飛行機に乗るので出発前からコンタクトではなくメガネを掛けており、そのせいでメガネケースを家に置いてきてしまっていたのだった。長い旅行ではちょっとした不便が積み重なってわりとストレスになるものだけれど、早いうちに解消できて良かった。
ジーンズがずり落ちなくなったツマはルッタランランと軽快に歩き出し、古い路地を抜けたところにある大聖堂までは5分もかからなかった。澄んだ青い空に向かってスイと伸びている大聖堂の尖塔は美しく、1200年もの間こうして人々を迎え続けたのだなあ、と思うと感慨深い。けれどそれほど大きくもなく、数多くの彫像で取り囲まれているわけでもない、つまりは大変地味な大聖堂だった。しかし歴史があり、ドイツ最古の世界遺産なのだ、これはとてもありがたいものなのだ…と自分に言い聞かせ、中に入る。そこは教会なので、入場料などというものはない。その代わり、写真を撮るなら1ユーロ払ってくださいよ…と書いてあった。もちろんそれは善意の寄付のようなもので、大聖堂をいつまでも美しく保つために協力を、ということだ。せっかく遠くまで来たけれど1ユーロがもったいないから写真は撮らずにおこう、ということにはもちろんならず、係員と思われる老人にお金を払い、紙製のリストバンドを受け取った。これを巻いている者のみが写真を撮れるのだ。つまり僕は大手を振って写真を撮るけれど、ツマは自分のスマホで撮影することは許されないのだ。僕は優越感に浸りながら何枚か写真を撮ったけれど、結局僕以外にリストバンドを着けている人は誰もいなかった。無許可で写真と撮っている皆さんに天罰が下らないよう祈るばかりである。どうかあの不届き者どもに不幸が訪れますように。
アーヘン大聖堂は地味だと言ったけれど、中に入ってみるとさすが世界遺産と唸らせるような精緻なステンドグラスが素晴らしかった。外見をちょっと見ただけで地味だのショボいだの言ってはいけないのだ。それでも10分ほど経つともう見る物もなくなってしまい、そろそろ外に出てご飯を食べようかということになった。
大聖堂の横には広場があり、さまざまな店が並んでいる。ハンスヴルストというヴルスト屋があったので、そこでドイツ名物のブラートヴルストを食べることにした。飲み物も必要だよね、ということで、僕はペプシ、ツマはレモネードを注文した。ところがどうだ、手渡されたのは炭酸オレンジジュースだった。僕は店員に、これはレモネードではくオレンジジュースではないか、と抗議したけれど、ウチには炭酸のジュースはそれしかないという。「おいしいから大丈夫よ」ってそういう問題ではないのだけれど、ないものは仕方ない、と引き下がることにした。ツマは、炭酸ジュースをすべてレモネードと呼ぶ国がいくつかあったはずだがドイツがそうなのかはわからない、と言った。後で調べると、やはりドイツ人は炭酸ジュースをすべてレモネードと言うそうだ。であれば「レモネード(オレンジ味)」と書いておいてほしいものだ。全独炭酸飲料振興協議会の皆様にはぜひそのようにご検討いただきたい。
少々ごたついたものの、焼きたてのブラートヴルストを冷めないうちに食べなければ、ということで店の前に並べられているテーブルに着いた。
ブラートヴルストというのは焼いたソーセージをパンに挟んだもので、それだけを聞くとなんだホットドッグかと思われてしまいそうだけれど全然別物なのだ。ホットドッグではなく、ブラートヴルストミットブロートウントゼンフなのだ。ホットドッグは気軽にひょいぱくと食べてしまうジャンクフードだけれど、ブラートヴルストは香りの良いパンと肉汁ほとばしる焼きソーセージ、それにマスタードがそのシンプルな構成からは想像もできないほど複雑で深い味を創出し、存分に旨みを楽しむことができる。ホットドッグなんか、と言ったら全米ホットドッグ愛好者連盟の理事長からお叱りを受けるかもしれないが、実際の所ホットドッグなんかブラートヴルストの足もとにも及ばないのだ。文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい。
旨い旨いと食べながら大聖堂を眺める。この店のある広場は大聖堂の正面から横に回り込んだところにあって、大聖堂は正面から見たときとは少し違う表情を見せていた。なんだこれは、と僕はペプシを飲んだ。息を呑むタイミングでちょうどペプシのボトルを口元に持って行っていたのでそうなってしまったけれど、心理描写として息を呑んだことにしておきたい。
正面から見たときは、実のところこれは大聖堂というよりも街の小さな教会の入口、という雰囲気で、まあ世界遺産なのだからきっとありがたいものなのだよ…と半分自分を騙すようにしていたけれど、横から見るとそれはもう立派な、誰がどう見ても歴史ある大聖堂なのだった。各種ガイドブックには正面から見た写真しか載っておらず、おそらく遠くからはるばる来て写真通りの入口に納得し、アーヘン大聖堂はなんだかショボいものだなあ、という感想を持ったまま帰ってしまう人も多いだろう。アーヘン大聖堂は時間がなくてもちょっと横に回り込んで見ていただきたい。
そろそろケルンに戻ろうかという時間になり、みやげ店を覗き、トイレに寄ってゆくことにした。ドイツのトイレはたいてい有料で、大聖堂の入口付近にあるトイレは50セントだった。入口には若いお姉さんがおり、コインを渡して入る。そこには洗剤や掃除グッズがこれ見よがしに並べられており、ちゃんと払ってもらったお金で清掃しているよ、とアピールしている。このアピールはわりと一般的なようで、この後あちらこちらで見かけた。
それにしてもあの若い女性はなぜあそこでトイレ番をしているのだろう、履歴書の職歴欄には「トイレ番」と書くのだろうか…と少し気になったけれど、その場で「緊急討論!若者はなぜトイレ番に憧れるのか!!」といった番組の収録を始める時間も設備もなかったため、その疑問はそれきりになってしまった。
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