肉とビールの大ドイツ

第13話 最終日
あなたが表示されたので大変困っています


 9日目、9月24日。
 最終日も、ミュンヘンの街を散策する。街の隅から隅まで見てやるのだ、ととにかく歩き回る。これという観光スポットでなくても、大きな教会などがあると覗いてみる。重厚な作りの古く立派な建造物があちらこちらにあり、ぶらぶらと歩いているだけでもなんだか巨大な博物館の中を歩いているような気分になった。
 小さな飲食店が集まっている広場に出た。ちょうどいい、と軽い昼ごはんを探す。クルステンブラーテンという、ローストした豚肉ととパリパリに焼いた豚皮をパンに挟んだ物を買った。店頭にはケチャップと2種類のマスタードが置いてあり、店のおばちゃんにどれがオススメかと聞くと、しばらく迷った後に甘いマスタードだと答えた。なるほどこの甘いマスタードはミュンヘンでもっとも好まれているもののようだ。かけてみると、これがまた香ばしい豚肉ととてもよく合う。でも肉200gで6ユーロ(780円)というのは少し高くないだろうか、と思いつつ齧りつくと、豚皮の食感は楽しく、香ばしい。一瞬で虜になってしまい、なんということだ!と額をパチンと叩いて天を仰ぐ。そのあまりの旨さに値段のことなどすっかり忘れてしまうのだった。
 ゆうべ晩ごはんを食べた店の近くのマリエンプラッツに戻ってきた。ここには新市庁舎があるが、みんな何やら上の方を見ている。カラクリ時計がもうすぐ動く、というので皆それを楽しみにしているようだった。ふうんそれならまあ無料だし見ていこうか、と見やすいところに移動しようとすると、目の前で立ち上がろうとした婆ちゃんが杖を落としてしまった。とっさに拾って渡してあげると、婆ちゃんはニッコリと笑って、ダンケシェン、とかわいい声で言ったのだった。やはり年を取ると突然目の前にアジア人が現れても動じないのだ。僕は、どういたしましてというのはどう言うのだったかな、と今回もすぐに思い出すことができず、黙って笑顔を返すしかなかった。しばらく歩いてから、そうだビッテシェンと言うのだったと思い出したがもう遅い。
 カラクリ時計というのは、どこもだいたいそうなのだけれど、始まるまではワクワクして待ち、始まるとしばらくは興味深く見ているのだけれど、30秒も経つと少し飽きてきて早く終わらないかなあなどと思ってしまう。ここのカラクリ時計も例外ではなくて、僕は始まるまではキラキラと少年のように瞳を輝かせて待っていたけれど、始まってから少しすると時々よそ見をして、ソワソワしながら終わるのを待った。ツマは辛抱強いのか、せっかくだからじっくり見なければ損だと思っているのか、最後までしっかりと見ていたようだった。その後は新市庁舎の展望台に上ったり買い物を楽しんだりと、残された時間を味わい尽くしたのだった。
 夜になり、帰りたくないなあ、帰りたくないなあ、でもやっぱり帰らないといけないよなあ、と嘆きつつミュンヘン空港に到着する。免税手続きをしなければならないのだけれど、どこで手続きができるのかがわからなかった。困っていると、青い丸に「i」と書かれたボードが見えた。このマークはおそらく全世界共通、ここに行けば困り事が直ちに解決するというありがたい場所だ。助かった助かった、と駆け寄る。おそらくタッチパネルか何かになっていて、まず英語モードに切り替え、いやひょっとしたら日本語モードがあるかもしれないがとにかく理解できる表示に切り替え、免税手続きカウンターを検索すればいいのだろう。いやあ助かった、とボタンを押すと、突然画面に女性の映像が映った。ほぼ等身大で、なんだか圧迫感がある。おやおやこれはどうしたことか、いったいこの顔のどこを押したら免税手続きカウンターの位置が表示されるのだ…と面食らっていると、女性は英語で「何かお困りですか」と話しかけてきた。映像ではなくリアルタイムの動画なのだった。はて僕は何を困っていたのだっけと思い返すと、タッチパネルと思っていたものが実は案内係と直接会話できるモニタだったのだというのが直近の困り事だけれど、「タッチパネルだと思っていたらあなたが表示されたので大変困っています」といったところで相手の女性も困ってしまってお互いにどうしたらいいのかわからなくなってしまうだろう。だいいち、本当に僕が困っているのはそんなことではないのだ。そこで僕は原点に立ち返り「免税手続きカウンターがどこにあるのかわからないのだ」と言った。女性は「パスポートコントロールの後」とだけ答えた。簡単だけれど必要充分な情報が得られたので礼を言うと画面はぷつりと消えた。実に素っ気ない。
 それにしても、それほど英語が得意でないはずの僕がとっさに対応できたのはたいしたものではないか。ほんの1週間ドイツにいただけでこの程度の英語対応力が養われるなら、いつか1ヶ月か半年か、そのくらい海外で暮らしてみたいなあ。
 免税手続きを済ませ、あとは出発を待つだけ…ではない。
 このミュンヘン空港には、世界で唯一という空港内のビール醸造所があり、当然できたてのビールを飲むことができるのだ。いつでもどこでも新鮮なおいしいビールが飲みたい!というドイツ人の執念なのか、ビールを目指してドイツを訪れた人にまず一杯飲ませておおこれがドイツのビールか…と感激させたい一心か、それとも僕のように後ろ髪を引かれつつ出国する者に最後のビールを振る舞いたいのか、理由はわからないけれど空港内でビールを造ってしまうというのは凄いじゃないか。これは飲まないわけにいかないよね、と店に駆け込む。最後のビールはとてもすっきり、けれどどっしりとした味わいで、なんともやっぱりドイツはビールの国なのだなあ、どこで飲んでも旨いなあ、と今回の旅を振り返りつつ出発の時を待つ。
 思えば、この一週間、どこで何を食べても、どこでビールやワインを飲んでも、すっくと立ち上がって指をさし、みんな聞いてくれ!これは旨いのだ!と叫びたくなるほどに旨かった。オクトーバーフェストの会場全体が醸し出す、ビールは楽しい!楽しいからビールなんだ!という雰囲気は生涯忘れないだろう。それとは対照的に、雄大なライン川の両岸にひっそりと佇む数々の古城、街道に沿って穏やかに僕らを迎え入れてくれたいくつもの古い街。ケルンからミュンヘンまでの1119.5キロの道のりは、刺激と発見、緩やかな興奮と喜びに満たされていた。出会った人々はみな笑顔で、ほんの一瞬、人生が交差しただけだったけれど、誰もが力強く僕ら旅人の背中を押してくれた。
 いつかまた、この肉とビールの大ドイツを訪れたいものだ。どの街に行くかはわからないけれど、進む道だけは決まっている。レフト!ライト!ブリッジ!レフト!ゴー!だ。閉ざされたようでも、必ず道は続いている。そうしてどこかの街に着いたら、どどどと酒場に駆け込み、相席になった現地の人々の笑顔と共に、プロースト!と大きなジョッキを高々と掲げよう。僕はそう誓って、最後のビールを飲み干したのだった。


もくじ
第 1話 1日目@ 松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ
第 2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
第 3話 1日目B あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね
第 4話 2日目@ なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ
第 5話 2日目A 特にそのためにドイツに来たわけではないですよ
第 6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
第 7話 3日目A 隣にアジア人が座っていても動じないのだ
第 8話 4日目  スパーンと抜かれたりするのだった
第 9話 5日目  やれやれ仕方ない、と最も高いワインを注文する
第10話 6日目  恐ろしいからその店には行かない!
第11話 7日目  あらまあロマンチックねえと言いたくなる気持ちはわかる
第12話 8日目  たぶん5〜6人は薙ぎ倒せるんじゃないだろうか
第13話 最終日  あなたが表示されたので大変困っています