肉とビールの大ドイツ

第5話 2日目A
特にそのためにドイツに来たわけではないですよ


 コブレンツからは電車でマインツに帰るのだけれど、途中でボッパルトという街に寄る。ここはライン川が大きく曲がっているところにある街で、リフトに乗って山の上からその雄大な景色を楽しめるのだという。
 とはいえすぐに帰るのももったいない、とほんの少しだけコブレンツの街を見て行くことにした。この街はライン川とモーゼル側が合流するところで、二つの川に挟まれた三角形の突起は「ドイツの角」と呼ばれている。僕らはまったく知らなかったが、この「ドイツの角」は世界的に有名なのだそうだ。なんだ、ただ川の合流地点というだけではないか…とつまらなく思いつつも、とりあえず角の縁まで行って川を眺める。するとそこはやはりただの川の合流地点なのだった。
 さて写真の1枚も取って先を急ごうか、というところで、視界の端で紙幣がひらりと落ちた。人間というのは浅ましいもので、コインがチャリンと落ちればハッと瞬時にそちらを向くし、紙幣がひらりと落ちればたとえ視界の端であっても気づくのだ。紙幣はそばに立っていた婦人のバッグからこぼれ落ちたのだった。風に煽られて川に落ちそうだったので慌てて拾う。見るとそれは20ユーロ紙幣、2600円札じゃないか。しめしめこれは儲けたぞ…などとはもちろん思わず、婦人に返すべく声を掛けた。
 突然、紙幣を持った不審なアジア人に声を掛けられたので、婦人はいぶかしげな表情をしている。私は見たのだ、あなたが落としたのだ、と言っても、首を横に振るだけだ。婦人の連れと思われる大柄な男性がなんだなんだ一体なにごとだと近づいて来たので、私は見たのだ、彼女がこれを落としたのだ、ともう一度言った。すると、おそらく男性が婦人に、お前が落としたと言っているぞと伝えてくれたのだろう、婦人はパッと表情を明るくし、紙幣を受け取ってくれたのだった。婦人と男性はダンケシェーンと繰り返したけれど、こういったときに何と言うのだったかな、と思い出せず、親切なアジア人はただニッコリと手を振ってその場を去ったのだった。
 「ドイツの角」の広場にどでんとそびえる巨大なドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム一世の騎馬像に圧倒されつつ、モーゼル川沿いに駅に向かう。ここからマインツ方面に向かう電車は少なく、乗り損ねたら大変だ…と歩いた。頑張って歩いたのだけれど、どうにも駅が見つからない。Googleマップに従って歩いて来て、確かに目の前に駅があるようなのだけれど、ないのだ。
 これはどうしたものか、と焦り困っていると、駅は向こうにあるようだとツマが言う。訳がわからずツマの指示通りに歩くと、そこには小さいけれど確かにドイツ鉄道の駅があった。どうもGoogleマップは駅に隣接したショッピングセンターに駅マークを付けてしまっているようなのだ。僕らはそこに向かって歩いたので、当然のようにショッピングセンターに到着したのだった。
 ドイツ鉄道の駅の時刻表は、黄色いポスターのような大きな紙に書かれていて、遠くからでもよく目立つ。駆け寄ると、少し待てば次の電車が来るようだった。やれやれ、と一息つき、ホームで電車を待つと、白を基調としたきれいな車両が現れた。
 このままマインツに帰るのか、というと、前述したとおりそうではない。途中ボッパルトに寄る予定だった。雨はすっかり上がっており、これならリフトに乗っても景色を楽しめるだろう。ボッパルトの駅で降り、たぶんこっち、と川沿いに歩くと、リフトへの道を案内する看板がある。それにはZur Sesselbahnと書いてあり、全体の意味はわからないけれど、〜bahnだから何らかの乗り物もしくは移動手段なのだということはわかる。その横には簡単なリフトの絵も添えてあり、大変親切なのだ。ライン川下りの乗船場もこの程度の案内板は立てられないものだろうか、と少々憤慨しながら看板に従って川を離れる。まもなく前方にはスキー場にあるような2人乗りのリフトが見えてくる。それは山の稜線に沿って登って行き、終点までは見えなくなっていた。片道20分かかるそうで、ずいぶんな距離なのだった。
 リフトのチケットを買い、乗り場へ向かう。リフトには人が乗る通常のイス型の他に自転車を引っかけて山の上まで運ぶフックのようなものがあり、ちょうど前の客の自転車が運ばれていった。頂上で受け取り、ダウンヒルを楽しむようだ。僕らもあのようにフックに引っかけて運ばれるのだろうか…という心配はまるで不要で、次にやってきたイス型のリフトに乗せられたのだった。
 リフトは山の尾根に沿って登っているので、左右が良く見渡せる。特に右側は大きなライン川を見下ろすことができ、素晴らしい景色だ。しかしこのリフト、非常に怖い。地面からの高さは10mほどだけれど、山の峰に沿って登っているため見晴らしが良すぎて、体感的には山と同じ高さをむき出しで飛んでいるようだ。すれ違うリフトを見ると、その座面は薄い板一枚となっている。なんだなんだ、我々はあのような薄い板の上に座っているのか…と知らされ、鳥肌が立った。それがもしペキンと折れてしまったら、僕らはまばたきを2〜3回したあとで両手のひらを上に向けて肩をすくめ、帽子だけを残して落下してしまうのだ。どすんと落下した後、急な山の斜面をゴロゴロと麓まで転がり落ち、もう一度最初からやり直しなのだ。ああ恐ろしい。
 終点に着くと、係の者が無言で迎えてくれた。日本だと、こういうとき「はい、お疲れ様でしたー」などと言われる。お疲れ様はおかしいだろう、なぜなら我々はただ座っていただけなのだ、と思いつつ「どーもー」などと曖昧な返事をするのだけれど、では何と言って出迎えればいいかというと良い言葉が見つからない。それはどうもここドイツでも同じようで、だから係の者は無言で迎え、僕らも無言でリフトを降りたのだった。
 リフトを降りると、ビューポイントはこちら、というような案内板が立っていた。それに従い、森の中を少し下りながら進む。この森は特にドイツっぽくはなく、なんとなくだけれど、僕らは今、栃木の山の中にいるのだ…と錯覚してしまった。
 森を抜けると少し大きめなカフェレストランのような店があり、数人の客が寒い中ビールを飲んでいた。そこからはライン川が大きく円を描いてΩ型に曲がっている「ライン川の大蛇行」を正面から見下ろすことができる。ちょうど鈴鹿サーキットの第1コーナー・第2コーナー正面のBスタンドにあたる場所だけれど、たぶん例えとしてはわかりづらい。
 この「ライン川の大蛇行」は、話だけ聞くとそれほど面白くはない。ただ川が曲がっているだけなのだ。そんなものはどこにでもあるよね、と根拠もなくひねくれた感想を持ち、では写真を見たらその素晴らしさがわかるかというとそうでもない。写真を見てもやっぱりただ川が曲がっているだけなのだ。まあこれだけ大きな川がぐるりと回っているのは確かに少し珍しいかもしれないけれど、わざわざ足を運ぶまでもないよね、でもこの辺りは他に見る物もないし…と僕はしぶしぶリフトに乗ってやってきたのだった。
 ところが、自分の目でこの大蛇行を見たときの感激と言ったら、言葉にしようがない。ライン川が描く弧の美しさなのか、町一つをぐるんと取り囲んでしまうほどの雄大さなのか、視界いっぱいに広がる大蛇行を見下ろす爽快感なのか、一体何がそうさせるのかはわからないけれど、僕はただ「おお…おおう…おお…」と声にならない声を上げるしかなかった。
 そのとき僕が持っていたカメラは、コンパクトカメラとしてはかなり広角なのだけれど、大蛇行はカメラには収まらない。パノラマモードにしてやっと全体像を納めることができた。一通り写真を撮ると、少し名残惜しくはあったけれど「おお父なる川ラインよ、我が心の故郷よ…」と言い残して帰ることにした。いろんなところが心の故郷になるのだ。

 栃木の森を抜け、リフト乗り場に戻る。係員はまた無言で迎え、僕らも同じように無言で乗り込む。下りは、目の前に山がないので登りよりも怖い。鉄柱の所を通過する際はガコガコガコンとリフトが激しく上下に揺れ、放り出されそうになる。少し雨がぱらついて、僕らは寒さと恐怖に震えながらやっと地上に戻ったのだった。
 1時間ほど電車に乗り、心の故郷マインツに戻ったのは18時を少し過ぎた頃だった。

 晩ごはんはどうしようか、とガイドブックをぱらぱらとめくっていると、ツマがマインツには旨いワインを飲ませる店が密集している一帯がある、と言った。またワインか、ビールを飲め、と促しても聞かず、結局はその一帯に向かうことになった。しかしその辺りにはどうもそのような店はなく、どれもブティックのような店になってしまっているようだった。呆然とたたずむツマを少し気の毒に思いながら、よしよしこれでビールを飲ませる店に入れるぞ、とあたりを見回した。しかしツマは、1軒だけ残っているワイン主体のレストランを目ざとく見つけ、そこに入ってみようと言う。そこはヴァインハウス・ツム・シュピーゲルという古い店で、見た目はまさにドイツ風、わざとらしいくらいドイツ風の建物だった。小さなドアからは中が見えず、いったいどんな状況なのかわからない。まあとにかく入ってみようか…とドアを開けると、薄暗い店内には客がぎっしりと詰まっていた。これはもしや満席か、あるいは相席となるのか…と身構えると、やはり大きなテーブルの一角に座れと促された。ドイツの飲み屋では、相席が当たり前なのだそうだ。
 周りを見ると、店内の客はかなり年齢層が高かった。やはり若い人はこういった薄暗くしっとりとした店でワインをしみじみと飲むよりも、明るく賑やかな店でビールをグイッと飲む方が好きなのではないだろうか。僕らの座ったテーブルには、地元の方々と思われる年配の4名の客が座っており、突然現れた若いアジア人に少し戸惑っているようだった。
 僕らとしても突然見知らぬ地で異国の方々と相席になるのだから、それはもちろん戸惑い緊張する。その緊張の中で、やはり年の功なのだろう、正面に座った初老の男性が英語で、どこから来たのだ、と聞いてきた。僕が「ジャパンからだ」と答えると、男性は少し考え込むように、「ジャパン…? ジャパン、ジャパン…」と呟いた後、「ヤーパン! そうかお前はヤーパンから来たのか!」と嬉しそうに笑った。そして横の婦人に、おそらく「彼らはヤーパンから来たのだ!」と伝えたのだろう、テーブルは、はるばる遠くから良く来てくれたなあ、という雰囲気に一変したのだった。
 「マインツに滞在するのか」というので、「このあとミュンヘンに行くのだ」と答えた。するとまた男性は首をひねり、「ミュンヘン…? ミュンヘンってどこだ…?」という。何を言っているのだ、ドイツ人のくせにミュンヘン国際空港を擁するミュンヘンも知らぬのか、東京に旅行に来てこのあと松戸市に行くのだと言ったら「松戸市とはどこなのだ」と聞かれても仕方ないけれど、ミュンヘンは松戸市ではないのだ!と憤慨したが、男性は「ミュンヘン…、ああ、ムンチェンか!こっちではムンチェンと言うのだよ…」と、疑問は晴れたけれど我が町マインツにはちょっと立ち寄っただけなのだということがわかって少ししょんぼりとしているようだった。
 しかし男性は次の瞬間、「オクトーバーフェスト!ちょうどオクトーバーフェストの時期じゃないか!」と叫んだ。僕が「そうそう、オクトーバーフェスト」と相づちを打つと、「オクトーバーフェストに行くのか! お前はオクトーバーフェストに行ってビールを飲むのか!」と、なんかだ妙に興奮している。うんそうですよ、と答えると、男性は連れの婦人達に「彼らはオクトーバーフェストに行ってビールを飲むのだ!」と高らかに宣言した。なんだか大げさだけれど、それだけオクトーバーフェストは国民的な行事で、誰もが一度は行ってみたいと夢見るものなのだろう。いえビールの神様に誘われてタマタマ行く事になっただけで、特にそのためにドイツに来たわけではないですよ…と今さら言い出せず、いいなあ、オクトーバーフェストかあ、いいなあ…という雰囲気に、アハハと笑うしかないのだった。
 しかしここでハタと気づいた。我々は日独親善交流団ではなく、南ドイツ・酒と肉をむさぼる団なのだ。まずは流儀に従い、適当にワインを注文しよう。ウェイターになかなか声が掛けづらく困っていると、隣のテーブルの男性がスイと立ち上がり、ウェイターに何かささやく。するとウェイターが注文を聞きに来た。おそらくヤーパンからの客人が注文したがっているようだ、と伝えてくれたのだろう。ドイツ人はさりげなく親切だ。僕ももし日本のレストランで外国からの客人が困っていたらさりげなく親切にしよう。ただしロンドン・ヒースロー空港の極悪非道な両替屋だけは別だ。あいつが来たら道は反対方向を教え、食べ物はすべて激辛を注文してやるのだ。ざまあみろ。
 サービスなのか手違いなのか、それともそれが当然なのかわからないが、グラスになみなみと注がれたワインを飲みつつ、食事を何にしようかと迷う。あまり選択肢はなく、シュニッツェルは昨日食べたしなあ、ということでリンズヴルスト(牛肉のソーセージ)を注文した。どうせ大きいに決まってるのでまた1つだけ注文し、ブロート(パン)を付けてもらった。
 やがて運ばれてきたヴルストはやはり予想通りの大きさだったが、僕は同じテーブルの親切な彼らに向かって、うわあなんだこれは大きいなあさすがドイツだなあ、と大げさに驚いてみせた。しまいには隣のテーブルのおばちゃんも話しかけてきて、もちろんドイツ語などまったくわからないけれど、なんだか歓迎されているようだなあ、ということだけはわかり、その夜はいい雰囲気の中でワインと食事を楽しむことができた。
 でもさすがにヴルスト1本では少し飲みたりず食べたりなかったので、マインツ駅の売店でビールと閉店間際の割引プレッツェルを買ってホテルに戻った。マインツ最後の夜は、部屋飲みで更けてゆくのだった。


もくじ
第 1話 1日目@ 松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ
第 2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
第 3話 1日目B あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね
第 4話 2日目@ なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ
第 5話 2日目A 特にそのためにドイツに来たわけではないですよ
第 6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
第 7話 3日目A 隣にアジア人が座っていても動じないのだ
第 8話 4日目  スパーンと抜かれたりするのだった
第 9話 5日目  やれやれ仕方ない、と最も高いワインを注文する
第10話 6日目  恐ろしいからその店には行かない!
第11話 7日目  あらまあロマンチックねえと言いたくなる気持ちはわかる
第12話 8日目  たぶん5〜6人は薙ぎ倒せるんじゃないだろうか
第13話 最終日  あなたが表示されたので大変困っています