第1話 北へ


 そう言えば、今朝買ったジュースのボトルキャップ、泣き顔バージョンだったな...。
 僕は、空港のカウンターでダイヤ遅延の説明を聞きながら、そんなことを考えていた。

 ぼんやりとしたものが急激に結晶化するとき、どこかに歪みが生じる。僕が長年暖めていた「オーロラを見たい」という思いを実現させる旅を思いついたのは、ほんの2ヶ月ほど前。出発の日、その歪みはバンクーバーで5年ぶりの大雪となって現れ、その影響で航空ダイヤはめちゃくちゃになっていた。

 「ええとですね、AC004便が遅れてますので、1つ前の002便に乗ってください」
 カウンターの係員はなんだか必死な様子でそう言った。
 一つ前の002便に乗っても、出発時刻は004便より遅くなるという。つまりはそれくらい遅れているということで、つまりは日程が大きく狂い始めたということだ。
 それでも僕ら2人は、あせっても仕方ないからね、出発まで暇だね、なんて話し合っていた。

 仕方なく、空港の出発ロビーで時間をつぶした。何年かぶりに、パフェなとどいう、へっ気取りやがってようチャラチャラしやがってよう的なものを食べたくなって、カレー&パフェが売りという食い合わせがどうこうということを全く気にしていない様子の店に入ったが、いま思えばこれはこれからの旅の食事を暗示していたのかもしれない。
 AC002便は、19時すぎに飛び立った。
 成田からバンクーバー国際空港までの約8時間半は、特になにもすることはない。食べて、寝て、食べてすごすしかなかった。
 夕食は寿司とそばとパスタが一堂に会した年に一度のオールスター的なものだった。パスタには味がなかったので塩をふったが、突然機体が揺れたので少しかけすぎてしまった。

 バンクーバー空港に到着すると、いきなりおそらくは芸術作品であろうオブジェが出迎えてくれた。入国ロビーに向かって歩くと、そこは小さな動物園のようになっている。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきたがもちろん本物ではなく、ようこそようこそ大自然いっぱいのカナダへ...といった雰囲気を出そうとしているようだった。
 ハワイやオーストラリアなどの南国では、飛行機を降りるとすぐにむわっとした熱気がよく来たなよく来たなとまとわりついてくるが、北国ではそれがない。ああ今まさに私は異国の地に降り立ったのだなぁという感慨は、旅行者にとって一つ目の思い出になるから、各国とも入国ロビーには格段のご配慮をお願い申しあげるものである、となんだか偉そうにふんぞり返って入国審査に向かった。

 日本からの飛行機に乗って来たのだから、入国審査には日本人がずらりと並んでいるはずだったが、トイレに行き、コンタクトレンズをはめたりしている間に、韓国人の団体に囲まれてしまった。
 入国審査は1人ずつ受けるものだと思うが、みんな家族単位で受けているようなので、僕らも2人で受けた。
 入国審査の係員は、なんだか不機嫌そうだった。前の韓国人がなにやら失礼な振る舞いをしたのか、1人ずつ来いよこのやろうと思っていたのか、隣国アメリカのテロの影響なのかはわからない。
 係員「(上目遣いでギロリと睨み)入国の目的は?」
  僕 「観光です」
 係員「(ふん、と鼻でため息をつき)行き先は?」
  僕 「フォートマクマレー」
 係員「(片方の眉をつりあげ)目的は?」
  僕 「観光だってば」
 係員「(眉間にしわを寄せ)何しに行くの?」
  僕 「だから観光だってば」
 係員「(明らかに怒りの眼差しで)何を、しに、行くの?」
  僕 「...? ノーザンライツ見に」
 係員「はぁ?物好きねぇ(という眼差し)」

 このときは知らなかったのだが、フォートマクマレーはまったく観光地ではないところで、海外から訪れるのはほとんどがオイルサンドという重油の原料が目的のビジネスマンだそうだ。現地の人たちから見れば、「あんな工業地帯を観光なんてアヤシイアヤシイ」というところなのだろう。しかも現地の人はオーロラなどあまり興味がなく、また北国の人というのはたいてい暖房をがんがん利かせているので寒いのが嫌いだ。「あんな寒いとこにわざわざオーロラ見に行くなんてアヤシイアヤシイもしくはモノズキモノズキ」と思ったに違いない。

 いいかい、西洋人はあれだよ、自然は神様が作りたもうたものだと思っているだろうから、まぁたくさんある自然のうちの1つくらいは別に見なくてもいいやと言うんだろうけれどね、日本人はね、すべてのものに神様が宿っていると考えているのだよ。ヤオヨロズノカミと言ってだね、いいかい、もうちょっとお聞き...。
 と、お説教のひとつふたつ垂れてやりたかったが、そんな時間はない。フォートマクマレーまでは、ここバンクーバーでエドモントン行きの国内便に乗り換えて、さらにエドモントンでフォートマクマレー行きに乗り継ぐ必要がある。ダイヤが乱れている今、次の飛行機への乗り継ぎは一刻を争うのだ。

 しかし、心配することはなかった。エドモントン行きの飛行機もそうとうに遅れていて、次の便の出発まではまだたっぷりと時間があった。僕は仕方なく待った。バンクーバー空港内をくまなく歩き回り、甘くなく、適切な量の正しい朝食を探した。しかしそんなものはどこにもない。仕方なく僕は朝っぱらから甘くて甘いうえにとても甘く、さらに仕上げに甘いメイプルシロップを塗りたくられたドーナツをかじった。なんだか、ものを食べるたびに洗礼を受けている気がする。
 出発予定時刻を過ぎ、やっとエドモントン行きの便に搭乗したときには、エドモントンに着いてももうフォートマクマレー行きの便に間に合わないのじゃないかと思える時刻だった。