第6話 オーロラの下にオーロラ観測の最終夜を迎えた。 1夜目は、飛行機の遅れでフォートマクマレーにたどり着けなかった。 2夜目は、雪が降ってまったく空が見えなかった。 そして、今日。最後のチャンスだ。雲ひとつない星空だ。 キャビンで待っていれば、オーロラが出たときにガイドが知らせてくれる。しかし、僕はオーロラの出現する瞬間を見逃したくなかったし、何よりもオーロラ自体、数秒で消えてしまうこともある。僕はずっと凍った湖面の雪の上に立っていた。 チャンスは、22時から翌1時30分までの3時間半。その間に、現れてくれるだろうか。 23時まで、まったく何の変化もなかった。ただ星を見上げていた。 緯度が高いとはいえ見慣れた北半球の星空は、とても賑やかだった。北極星がだいぶ高い位置にあり、オリオンや北斗七星、小さな星々がそれを取り囲んでいる。双子座のあたりを見たが、星が多すぎてすぐに見つけられなかった。 あたりからは、氷が膨張して割れる「ズシン」という低い音と、白樺の木の中の水分が凍って幹がはじける「パキィッ」という乾いた音がいくつも聞こえてきた。 時どき、薄く、ごく薄く、縦に棒状のオーロラが見えた。それはすぐに消えたけれど、しばらくすると別の場所にまた棒状のオーロラがぼんやりと現れた。 「寒くないですか?」 ガイドが声をかけてきた。 「大丈夫です。あのへん、ちょっと来てますよね」 「そうですね、来てますね。もうちょっとですね」 オーロラがどんな現れ方をするのか知らないので、ぼんやり現れたのが前兆なのか、それ自体が完結したオーロラなのかわからない。僕は、とにかくカメラを北の空に向けた。 気温はマイナス25度。これだけ寒いと、カメラの扱いにもとても気を使う。 霜が降りてしまわないように、布をかぶせておく。ときどきレンズを確認するけれど、息がかかるとレンズに氷が張ってしまう。フィルムを乱暴に巻きあげると、フィルムが固くなっているので切れてしまうし、空気が乾燥しているので静電気が起きて露光してしまう。シャッターを切るときは息を止めないと、白い息が写ってしまう。 この旅行に向けて、オーロラ写真の取り方をいろいろと勉強した。 僕はそれを何度も頭の中で繰り返して、オーロラを待った。 23時30分。 夜食の支度ができたという。 僕はずっと空を見ていたかったが、少しだけ休憩することにした。 23時45分。 夜食を終えて再び空を見たが、真っ暗なまま。 さっきまで出ていた月が、雲に隠れた。 空が暗くなり観測条件としてはよくなったが、そのまま空が雲に覆われてしまったら元も子もない。 24時00分。ぼんやりとした緑色の光が見えた。 それは急激に成長しはじめた。 右の方の空にも、同じような光。 来るか? そう思った瞬間。 2つの光が、鮮やかに波打って広がり、繋がった。 僕は夢中でシャッターを開けた。 1、2、3、4、5! 5秒カウントし、シャッターを閉じる。 揺らめいている。光り輝いている。 強い光のかたまりが左から右へすらりと飛び移る。 1、2、3、4、5! 5秒カウントし、シャッターを閉じる。 ふっ、っと、オーロラは消えた。あっという間の出来事だった。 僕は全身の毛が逆立つのを感じながら、カメラをのぞき込み、フィルムを確認した。あと何枚ある?だいじょうぶ、まだ十分残っている。レンズも曇っていない。三脚もしっかり固定してある。 そのとき、僕は、全身に電流のような物を感じて、目を見開いた。 来た! そう直感した僕は、顔を上げるよりも早くシャッターを開けた。 さっきよりも大きな、はっきりとしたオーロラがたなびいている。 1、2、3、4、5! 5秒カウントし、シャッターを閉じる。 凍ったフィルムが破断しないように、ゆっくりと巻き上げる。 再びシャッターを開ける。 1、2、3、4、5! 5秒カウントし、シャッターを...閉じない? 聞いたことがある。電気式シャッターは、寒さでバッテリーがやられ、シャッターが切れなくなる。機械式シャッターは、グリスが凍り、シャッターが切れなくなる。 このとき僕が使っていたのは、1966年製のヤシカ。クラシカルだがいかにも頑丈そうな、機械式シャッターのカメラだ。僕のカメラは電池を使うため寒さに弱そうだったので、父の古いカメラを引っぱり出して持ってきていた。ただでさえ経年変化で固くなっていたグリスがやられたか! 僕は奥歯をかみしめ、フィルムを巻き上げる。 シャッターは閉じないものの、レリーズボタンを押せばロックがはずれ、フィルムを巻き上げることだけはできるようだ。フィルムを動かせば、露光せずに次のコマに進めるかもしれない。 1、2、3、4、5! カウントし、フィルムを巻き上げる。 そのとき、シャッターが閉じた。フィルムを巻くときのショックで、閉じることがあるのか! やわらかい光は、ときおり激しくゆらめき、ひらめく。 僕は再びシャッターを切った。 また閉じない。構わずフィルムを巻き上げる。 まだ閉じない。 再び5秒カウントし、フィルムを巻き上げる。 今度は閉じた! 右の方で光が渦を巻く。 端の方はオレンジ色に光っている。 僕はカメラの向きを変え、シャッターを開く。 今度も閉じない。 構わない、シャッターを開きっぱなしでフィルムを巻き、5秒露光を続けた。 フィルムが尽きるのを見届けたように、オーロラは消えていった。 僕は全身の震えを押さえることができなかった。 ひざの力が抜け、その場に崩れ落ちるように座った。 目の前にはヤシカが立っている。 その命とも言えるシャッターを凍り付かせながら、なおも光をとらえ続けたヤシカ。 僕はヤシカを手に取り、静電気が起きないようにゆっくりとフィルムを巻き取った。 数分後、空はすっかり雲に覆われてしまった。 すべてが、最後の瞬間に合わせて力を振り絞った。 オーロラも。星空も。ヤシカも。フィルムも。 カメラを、急激な温度変化から守るためにクーラーバッグにしまいながら、僕はもう一度空を見上げた。 今は真っ暗だけれど、確かに僕はオーロラを見た。あの空に輝いていた。 白樺の木のはじける音が、また一つ、広い湖上に響いた。 |
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