肉とビールの大ドイツ

第1話 1日目@
松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ


 うむむ、と僕は唸った。
 2015年9月16日、羽田空港の国際線ターミナルで新たな旅の始まりを迎えて、僕はそれでも海外旅行直前の独特の高揚感というより、戸惑いのほうを強く感じていた。
 今までの僕らの旅と言えば、今日は雨だからこれを見よう、明日は晴れるからあそこに行こう、とよく言えば臨機応変、悪く言えば行き当たりばったりで、場合によってはホテルで朝食を済ませてからさて今日はどうしようか…とガイドブックを開くような、そんないいかげんなものだった。
 ところがどうだ。いま僕の目の前にあるのは極めて綿密、まるで旅行代理店のパンフレットのように8泊10日の予定がきっちりと記入されているスケジュール表だ。僕は再び、うむむ、と唸った。自分で決めたとはいえ、がんじがらめではないか。
 しかし仕方がない。マイルの特典航空券を使っての旅なので、旅程がほぼ強制的に決まってしまっていたのだった。
 それは、スギ花粉が飛び始める前で、ヒノキ花粉症の僕はまだまだ余裕余裕フンフフン…などと鼻歌を歌っていた頃だった。そろそろマイルの期限が迫っている、と2年前にロンドンに行くことになったときとまったく同じようにツマが言ったのがきっかけだ。でも今回は新婚旅行というわけではないから長い休みは取れないのではないかな、と少し諦め気味に、それでもいつ頃がいいかねえとカレンダーをめくると、半年後の9月に連休がある。土曜から水曜までの5連休となっており、シルバーウィークと言うのだそうだ。僕は夏休みを7月から9月の好きなところで5日間取れるので、それを連休明けの木金にあてれば、まるまる1週間、つまりは土曜から翌週の日曜までの9日間の連休となるではないか。海外旅行には充分な期間だ。
 となるとやはり海外に行きたいものだけれど、行き先はどこにしようかと考える間もなく、あっさりとツマが以前から行きたがっていたドイツに決まった。今まで僕は、ドイツ語なんかまったくわからないから…とドイツ行きを拒んでいたけれど、前回のイギリス旅行でヨーロッパの街並みというのはいいものだなあと知ってしまって、そうだねえじゃあ言葉はまったくわからないけれどドイツに行こうか、とわりと軽く決断したのだった。
 そうと決まれば、行き帰りの足を確保しなければならない。マイレージの特典航空券で予約できる座席数には限りがあり、早く予約しないとあっというまに埋まってしまうのだ。ANAのドイツへの直行便は、フランクフルトとミュンヘンに向けて出ている。まずはフランクフルトの往復を…と思ったが、すでに席は埋まってしまっていた。では出発を1日早めてはどうか、ということになった。僕の夏休みは5日間あるので、木金で2日使ったとしてもあと3日残る。それを使って、シルバーウィーク前日の金曜日に出発すればいい。
 ところが、その日も満席だった。ではその前日、その前日…と探すと、ようやく9月16日水曜日の往きの便が空いていた。その1週間後くらいを目安に帰りの便を探すが、なかなか空きがない。これはもうダメだな…と諦めかけたところ、ツマが「ミュンヘンなら帰りの便が取れるので、フランクフルト空港から入国し、車もしくは長距離列車でミュンヘン空港に移動し、そこから帰国してはどうか」ととんでもないことを言い出した。何を言うのだ、フランクフルトとミュンヘンは直線距離で300キロ、車で移動するなら最短ルートを通っても400キロも離れているのだ、この家からバスで市川駅まで行って総武線と京浜東北線を乗り継ぎ秋葉原上野経由でさらに常磐線に乗り換え松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ、とたしなめたけれど、結局はそれ以外にドイツ旅行を実現する方法が見つからず、なし崩し的にフランクフルトからミュンヘンに大ドイツ内を大移動する8泊10日の大旅行になってしまった。
 ドイツに行くことは決まったけれど、まああと半年あるしねえ、少しずつ情報を集め、どこに行くか決め、どの街で宿泊するかゆっくり決めればいいよね…と、無事に往復の便が予約できたことに安堵していると、ツマが「オクトーバーフェスト…」と呟いた。僕は、ああなるほど、ドイツといえばビール、ビールといえば世界最大のビール祭りオクトーバーフェストだねぇ、でも残念ながら僕らが行くのはセプテンバーの中旬だからねぇ、と呑気に返事をした。ところが、ツマはパソコンの前でカタカタと小刻みに震え、信じられない、とでもいうようにゆっくりと首を振った。聞くと、オクトーバーフェストは、9月19日から10月4日までの開催だという。ちょうどミュンヘン入りしてから帰国するまではオクトーバーフェストのまっただ中じゃないか。なんということだ、ビールが大好きな僕は知らないうちに世界最大のビール祭、オクトーバーフェストに参加できる日程を組んでしまったのだ。酔っ払ったときにしか見えないから半信半疑だったけれど、やはりビールの神様というのは存在するのだ。
 でもねぇ、と僕はツマに言った。ビールの国に行ってビールの祭典に参加できるなんて、幸運じゃないか。なぜそんなに真っ青な顔をして震えているのだ、と。しかし、すぐにその意味がわかって、僕も全身が震えるのを押さえきれなくなった。期間中は何百万という人が押し寄せるので、宿がなかなか取れないそうだ。
 食事や観光などは後からでもどうにでもなるけれど、宿が取れなかったら一大事だ。とりあえず、とエクスペディアにアクセスし、宿を検索してみる。海外のホテルも国内の温泉旅館も山奥のペンション「ほうき星のしっぽ」も、まったく同じようにネットで予約できる。便利になったなあ、とありきたりな感想が漏れてしまうがそれどころじゃない。
 ホテルに選択の余地はなかった。ミュンヘン全体で検索しているにもかかわらず、空室がほとんどない。あったとしても、なんだかものすごく高い。一泊一室3万円、というホテルばかりだ。ひょっとしたら、ドイツは物価がものすごく高いか、あるいは宿泊費だけが異常に高いのか…と日付をずらして検索すると、常識的な金額だった。また、フランクフルトのホテルは、オクトーバーフェスト開催中でもそれほど高くはない。ということは、オクトーバーフェストで人が集まるのをいいことに、ミュンヘン近辺のホテルは一斉に宿泊費を上げやがったのだ。なんという悪逆非道、でもビール飲みたいからミュンヘン近郊に泊まらないと…と、僕は歯ぎしりをしながら、2泊2人で6万円弱、という僕らとしてはとんでもなく高いホテルを予約した。
 もともと、最終日のミュンヘンの宿には少しお金をかけてもいいと思っていた。これは僕の旅のセオリーに則ったもので、最終日にちょっといいホテルを予約するのだ。それを上限にして他の日のホテルを探す。こうすると、ああ明日はもう日本に帰るというのになんでこんな路地裏の小さく暗いホテルに泊まらなければならないのヨヨヨ…と薄汚れた埃っぽい小さなベッドで泣いて最後の夜を過ごすことになる心配がない。しかし今回は、いいホテルだから高いのではなく、ボッタクリ期間だから高いのだ。ひょっとしたら薄汚れた埃っぽい小さなベッドで泣いて最後の夜を過ごすことになるかもしれないな、と僕は覚悟した。

 と、ドイツ旅行を思い立ったその日のドタバタを思い出しながら、搭乗開始まではすることもなかったので、僕は手元の綿密な計画表に目を落とした。今回の旅の道のりはこうだ。
 フランクフルト空港に到着後、電車でマインツに移動。マインツで1泊するが、到着するのが夕方なのでその日は晩ごはんを食べるだけだ。
 2日目、鉄道でビンゲンまで移動し、そこからライン川下り。川岸にいくつもの古城が建っており、きれいなのだそうだ。ライン川下りは、一般的なツアーだと1時間半ほど雰囲気を楽しんだら途中のザンクトゴアールで下船してしまうらしいが、僕らは倍以上の時間をかけて終点のコブレンツまで行く。その後は鉄道でマインツに戻り、時間があれば市内観光。
 3日目は都市間特急列車ICEでケルンに移動。ケルン大聖堂という、なんか立派な建物があるらしい。レンタカーを借りるので、ええいついでだ、とドイツ最古の世界遺産アーヘン大聖堂まで行ってみる。
 4日目からはいよいよレンタカーでの本格的な移動が始まる。まずはやや南下し、古城街道沿いのヒルシュホルン城に宿泊。古城を改装したホテルに泊まるのだ。なんだかすごいじゃないか。5日目は古城街道を東に進み、ロマンチック街道の起点であるビュルツブルクへ。このあたりから、移動がメインになって観光がおろそかになる。6日目はロマンチック街道をグイッと南下し、ローテンブルクやネルトリンゲンといった古い町を休憩がてら散策した後、アウクスブルクへ。7日目は東京ディズニーランドのお城にそっくりねぇ、ステキねぇ、と日本人に大人気のノイシュヴァンシュタイン城を訪ねてからミュンヘンに向かう。ここでレンタカーを返却し、大移動は終わりだ。
 8日目はいよいよオクトーバーフェストへ。ビールはすべて1リットルのジョッキで提供されるそうで、どんな雰囲気なのか楽しみだ。そして最終日の9日目はミュンヘン市内を観光し、夜の便で帰国する。
 うむむ、と僕は三度目のうなり声を上げた。都市周遊といえば聞こえはいいが、ほとんど全部自分で車を運転して移動するのだ。なんだかものすごく大変そうじゃないか。僕は少し後悔しつつ、やや弱気に搭乗ゲートをくぐった。


もくじ
第 1話 1日目@ 松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ
第 2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
第 3話 1日目B あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね
第 4話 2日目@ なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ
第 5話 2日目A 特にそのためにドイツに来たわけではないですよ
第 6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
第 7話 3日目A 隣にアジア人が座っていても動じないのだ
第 8話 4日目  スパーンと抜かれたりするのだった
第 9話 5日目  やれやれ仕方ない、と最も高いワインを注文する
第10話 6日目  恐ろしいからその店には行かない!
第11話 7日目  あらまあロマンチックねえと言いたくなる気持ちはわかる
第12話 8日目  たぶん5〜6人は薙ぎ倒せるんじゃないだろうか
第13話 最終日  あなたが表示されたので大変困っています