肉とビールの大ドイツ

第3話 1日目B
あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね


 マインツには30分ほどで到着した。駅には駅舎もあるのだけど、そこを通らずホームから直接外に出られるようになっている。なるほどヨーロッパに来たのだなあ、と感慨深い。駅前広場の石畳は濡れていて、ついさっきまで雨が降っていたようだった。
 さてホテルはあのへんにあるはず…と見ると、駅前のバス乗り場の向こうに「ホテル・ケーニヒスホフ」と書かれた赤茶色のビルがあった。おいおい、なんだかずいぶん小さいじゃないか、写真で見たときはもっとこう立派な建物だったはずだが…と不審に思いつつホテルの正面に回ると、思っていたより少し小さいけれど写真で見たような構図になった。
 ホテルのドアは自動ドアだった。けれどそれは引き戸ではなく開き戸で、まるでレトロゲーム「マッピー」のようにガラスの開き戸がダイナミックにぐわっと自動で開くのだ。ドイツ、というか欧米一般では引き戸よりも開き戸の扉のほうが多く、それが自動ドアに進化するとこうなるのだなあ、と納得はしたけれど、引き戸の自動ドアよりもずいぶん事故率が高いのではないだろうか、と少し心配にもなる。なにせボンヤリウッカリとドアに向かうと、いきなり何の予告もなく勝手に手前に開くのだから、ゴツンとぶつかる人が年間1000人くらいはいるのではないだろうか。
 ロビーは狭く、ソファーが2つ3つ置いてある。そしてそこに10人くらいの初老の男性がたむろしていた。何事だろう、と僕は少しおののき、ひょっとしてチェックイン待ちの人たちなのだろうかと様子をうかがったが、彼らは何を話すでもなく、ただそこにいた。そのうちの一人が僕に気づくと、気にせず通れ、とでも言うように手招きをしてくれたので、じゃあちょっとすいません、失礼しますよ…とやっとフロントに辿り着いたのだった。
 ドイツに来て初めてのチェックインだな、と少し緊張したけれど、特に滞ることはなかった。部屋は101号室、エレベーターは奥にあるよ…というので言われるまま奥に行くと、確かにエレベーターのボタンがあった。けれどその横にはドアノブの付いた扉があって、その奇妙な組み合わせに途方に暮れてしまった。なんだこれは、いったい何をどうしたらエレベーターに乗れるのだ…と戸惑いながらも、まずはボタンを押してエレベーターを呼ぶ。するとまもなく扉に開けられた小さな窓からエレベーターのカゴが到着するのが見えた。とすると、この扉が先ほどの入口の扉のように自動でぐわっと開くのだろうか、と身構えたが、しばらく待っても開かない。まさかとは思うけど…とドアの取っ手を引くとそれは普通に開き、カゴに乗り込むとカゴの引き戸が閉まった。つまり、エレベーターの前の手動の開き戸と、カゴの自動の引き戸と、二重になっているのだ。ははあドイツ人はどうやら慎重派らしいな、と僕はドイツ人のすべてを理解したかのように顎をさすり頷いたのだった。
 エレベーターは、階段の踊り場に着いた。これはもともとエレベーターがなかった古い建物にはよくあることで、部屋を削ってエレベーターを設置することはできないので、必然的に踊り場がエレベーターホールとなってしまう。つまりは、せっかくエレベーターを使ったのに半階分は重い荷物を持って登り降りしないといけないのだった。
 建物は少し古かったけれど、客室フロアはリフォームされており、明るくきれいだった。101号室のドアに鍵を差し込む。ああ、長い旅路がやっと終わるのだ、このドアを開ければそこにはふかふかのベッドがあり、まずはそこに大の字になって一休みするのだ…とおもむろに鍵を回すが、手応えがない。右に回すのか左に回すのか、1回転すると再び鍵がかかるので半回転の状態でドアを押すのか…と試行錯誤したがなかなか鍵は開いてくれない。2分ほど、ああでもないこうでもないと試し、どうやらドアノブをぐいと引きながら鍵を回すと開くようだ、ということがわかり、なるほどドイツ人は慎重派なので鍵も簡単には開かないようになっているのだなと小さく何度か頷いた。小さく何度か頷く、というのは、つまりはあまり納得していないという意味だ。
 部屋は予想の3倍ほど広かった。まずベッドルームがあり、その奥にもベッドルームがあり、さらにその奥に小さなスペースがあり、そして最後にバスルームがあった。僕らは2人しかいないのに、贅沢すぎるではないか。ただし窓はロの字型の建物の内側を向いていて、マインツの街を眺めることはできなかった。
 予想以上に広い部屋に一通りはしゃぐと、僕のお腹がクゥと鳴った。時計を見ると19時。7時間の時差があるのにちゃんと晩ごはんの頃にお腹が空くとは、ANAの食事コントロールは絶妙じゃないか。
 さすがに着いてすぐの晩ごはんはその場で決めるわけにはいかないよね、と今夜の食事の店は決めてあったので、ホテルを出てタブレットの地図を頼りに「ブラウハウス・ツァー・ゾンネ」に向かう。訳すと「太陽の醸造所」になるだろうか。
 ところが店の名前とは全く逆で、この日は予報通り雨が降っていた。しかも本降りで、スコールを除けば、海外でこんなふうに雨に降られるというのは初めてかもしれなかった。ドイツ人は雨でも傘を差さないと聞いていたがそれは本当で、たまにすれ違う人はほとんど皆びしょ濡れになって歩いていた。
 やがて商店街のようなところにさしかかったが、ほとんどの店が閉まっていて、ひっそりとしている。人が来ないから店を閉めたのか、店を閉めたから人がいないのかはわからない。こんな様子ではレストランも閉まっているかも知れないぞ…と不安を感じながら歩いて行くと、「ブラウハウス・ツァー・ゾンネ」があった。店の前にはいくつものテーブルが並べられていて、天気が良ければそこに大勢の客がいるのだろうけれど、さすがのドイツ人も雨に濡れながら傘も差さずに食事を摂る、ということはないようだった。
 店の入口から覗き込むと、店内は外の静寂が嘘のように大盛況、全てのテーブルが埋まっていた。僕らに気づいた店員が「ちょっと待ってて」というのでドアの手前に立っていると、まるで「ドイツ人は酔うとこうなるのだ!」と全身でアピールしているかのような、典型的酔っ払いドイツ人の老人が現れた。老人は外を指さし、英語で「見ろ!雨だ!最悪だ!」という。それには同意だったので、ああそうだね雨で最悪だねと適当に応える。老人は言葉が通じたことが嬉しいのか、続けて「俺はこの街で生まれたのだ!ここは俺の街なのだ!」という。「そうですかあなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね」とはさすがに言えず困っていると、「ディナーか!ディナーなのだな!なら中へ入れ!さあさあ!」と自分の店でもないくせに招き入れる。いやこちらは店員に待ってろと言われて待ってるのだ、待てと言われたらキチッと待つのが日本人なのだ。しかし騒ぎに気づいた店員はさっき待てと言ったのを忘れたのか、それとも僕の聞き間違いだったのか、奥のテーブルへ行けという。店内は満席のようだったけれど、よく見ると店の奥にはもう一つ部屋があり、10人掛けくらいのテーブルと4人掛けのテーブルがある。4人がけのテーブルには先客がいたので、僕らは大きい方のテーブルの奥の方に小さく座った。
 席に着くとすぐにウェイトレスがメニューを持ってきた。そのメニューは英語版で、手書きの「本日のオススメ」的な紙が挟んであった。これならちょっと頑張れば問題なく注文できるな、と安心した。
 しかし困ったぞ、こんな奥の方では店員さんに忘れられてしまうのでは…と思ったがそれは杞憂で、しばらくすると店員が注文を取りに来た。僕は迷わずビールを注文する。ビールは400mlで2.7ユーロ(350円)と、それほど安くない。ドイツではビールが水のように飲まれている、と聞いていたので、少し驚いた。ツマもビールを飲むのだろうと思っていたらアプフェルヴァイン、つまりリンゴ酒を注文したのだった。リンゴ酒はお隣フランクフルトの名物で、実はその日はフランクフルト空港からフランクフルト市内に行き、リンゴ酒を飲みつつ晩ごはんを済ませてからマインツに向かえないだろうかと検討してみたのだけれど、マインツ着が遅くなりすぎるので諦めていたのだった。諦めたはずのリンゴ酒がメニューに載っていたので注文したのだ。なんという執念深いツマなのであろうか。
 ビールはとんでもなく旨かった。ビールの味は、その半分がその場の天気と店の雰囲気で決まるのだけれど、雨降りというハンデがあるにも関わらず旨いのだ。さすが本場、さすがドイツ。でもグビグビ飲んでしまうともったいないから…と少し控えめに飲む。
 ドイツのレストランでは、まず飲み物を注文し、それを飲みながらゆっくりと食べるものを決めるのだそうだ。僕らもそれに倣い、メニューを眺める。少し迷ったけれど、結局はオススメメニューの中から「ポークシュニッツェルの木の子ソースがけ、揚げたてフライドポテトとサラダを添えて…」を選んだ。1つだけ注文し、2人で分けることにする。欧米の料理は日本人には多すぎるのだ。以前オランダのレストランで2人で1つずつ注文し、大量に残してしまったことを申し訳なく思っていたら、別の店で「シェアする?」と聞いてきてくれた。「ああそういう方法があるのだな、1つを半分こするのは恥ずかしいことではないのだ」と、それ以来どこに行っても1つだけ注文しシェアすることにしていた。
 シュニッツェルというのは衣を付けて少なめの油で揚げたカツのようなもので、たいへん日本人好みの料理だ。カリッとした衣に包まれた存在感のある肉がたまらなく旨い。これをいろいろなソースでアレンジするのだけれど、この日のシュニッツェルはキノコソースがかかっていた。それとゴロッとしたフライドポテト、サラダが付いて13.5ユーロ(1700円)。2人で分けたので、実質900円ほどでお腹いっぱいになる。ただしビールは別料金で別腹だ。
 そろそろビールがなくなるな、というところで再びウェイトレスが現れる。ボタンを押さないと来ず、ボタンを押さない限り絶対に目を合わせようとしない日本のファミレスバイトとは格が違うのだ。どうだ参ったか。
 僕らは旨い料理と旨い酒、それから行き届いたサービスで彩られた初日の晩ごはんに大満足し、軽い酔いを心地よく感じつつ店を出た。

 このまままっすぐ帰るのももったいないから、と、あたりを散策しながらホテルに向かうことにした。街は21時を回ったばかりだというのにひっそりとしていて、人はほとんど歩いていない。雨は上がっていて、少し寒かった。
 マインツ大聖堂というのがあり、この時間では中に入ることはできないけれど、せめて外観を眺めようじゃないかと行ってみる。普通、大聖堂というのはなんというかシュッとしていて、縦方向に長いイメージがある。しかしここの大聖堂は幅があり、まるで城のようだった。これがドイツでいうところの大聖堂なんだなあ、さすが古城の国だなあ、と僕はまた1つを見ただけで全てをわかったような気になり、偉そうにゆっくりと頷いたのだった。
 さてもう見るところもないしそろそろ帰ろうか…というところで、困ったことになった。トイレに行きたくなってきたのだ。ご存じとは思うがビールには利尿作用があり、僕は特にビールの利尿作用に弱いのだった。これは急いで帰らないと大変なことになるぞ…とやや急ぎ足で歩き出すと、広場に面したビルにWCの文字がある。地下に向かって階段が降りており、これ以上はないくらい怪しかった。こういったところはたいてい怖いお兄さんたちのたまり場となっており、一度入ったが最後、運が悪ければそのまま二度と出られず、運が良くてもクスリ漬けにされて出てくるのがオチなのだ。海外のトイレというのはそのくらい怖いのだ。たぶん。
 これはちょっと、いやしかし…と少しためらったけれど、このままでは初日にしてジーンズ1本を廃棄することになってしまうので、ええいままよ、と入ってみることにした。ツマに「もし5分経って戻らなかったら警察を呼ぶのだぞ」と、警察の呼び方はわからないけれど言い残し、階段を下りる。もし怖そうなお兄さんたちがたむろしていたらすぐ逃げられるように、慎重に1段ずつ降りる。しかし降りきると中には誰もおらず、それは実に明るくきれいなトイレだった。水道と石けん、ペーパータオルも設置されており、申し分ない。おおマインツ、なんと素晴らしきかな我が心の故郷マインツよ…と僕は晴々とした笑顔でツマとの再会を果たしたのだった。


もくじ
第 1話 1日目@ 松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ
第 2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
第 3話 1日目B あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね
第 4話 2日目@ なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ
第 5話 2日目A 特にそのためにドイツに来たわけではないですよ
第 6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
第 7話 3日目A 隣にアジア人が座っていても動じないのだ
第 8話 4日目  スパーンと抜かれたりするのだった
第 9話 5日目  やれやれ仕方ない、と最も高いワインを注文する
第10話 6日目  恐ろしいからその店には行かない!
第11話 7日目  あらまあロマンチックねえと言いたくなる気持ちはわかる
第12話 8日目  たぶん5〜6人は薙ぎ倒せるんじゃないだろうか
第13話 最終日  あなたが表示されたので大変困っています