肉とビールの大ドイツ

第7話 3日目A
隣にアジア人が座っていても動じないのだ


 ケルンに戻ると、すぐにホテルにチェックインした。ケルン大聖堂という、なんか有名な大きな建物があって、17時までに行けば塔の上の方まで登れるのだそうだ。ふうん、どうやら間に合うようだから、それじゃあひとつ行ってみますか…と軽い気持ちで大聖堂に向かう。ホテルから大聖堂までは、歩いて10分とかからない。近いけれど、道は3〜4階立てのビルに囲まれていて、なかなか大聖堂は見えなかった。僕らは、たいそう高い大聖堂だそうだけれど、ぜんぜん姿が見えないねえアハハ…と呑気に歩いて行く。しばらく歩くと広場のようなものが見えてきて、ぷつりとビルの列が途絶える。その瞬間、僕らの全身は鳥肌に覆い尽くされ、おお…という声が自然に口から漏れた。
 そこにあったのは、およそ現実とは思えない、高さ157メートルの巨大な聖堂だった。まるで精巧緻密な装飾品を隙間なくびっしりと並べ、積み上げたたような建造物。600年の歳月をかけて建造されたそれは、雨風で黒ずみ、ある種の恐怖心すら煽るほどの迫力がある。今までいくつもの大聖堂や歴史的建造物を見てきたけれど、震えが止まらなくなるほどの感動を覚えたのは初めてではないだろうか。こんなものを作り上げる人々の執念にも似た信仰心、僕は特定の宗教を信じてはいないけれど、この信仰心には畏敬の念を表さずにはいられない。この大聖堂を、この感動を、何と言い表したらいいだろう。ひょっとしたら新しい言葉を作らなければ、その欠片ほども表現できないのではないだろうか。
 そのため、「けるん」という言葉を作った。擬態語であるので、「けるんとした建物」といった使い方をする。言葉にできず、鳥肌が立つほど感動させる状態を表す。
 ケルン大聖堂はとてもけるんとしていた。世の中にこれほどけるんとした建物があるだろうか、と疑わざるを得なかった。僕らはただ惚けたように「おお…、とてもけるんとしているねぇ…」と呟くしかなかった。

 僕らはその外観に圧倒されたけれど、大聖堂の塔に登るには17時までに受付を済ませなければならないことを思い出した。あと15分もあるから間に合うよね、と大聖堂に入る。中もとても素晴らしいけれど、とりあえずはまもなく締め切られる受付に行かなければ。
 ところがなかなか受付が見つからない。ガイドブックを見ても詳しいことは書かれておらず、案内図らしいものもない。いったん外へ出ても見つからない。困った困った、あと5分しかないぞ困った困った、と歩きまわっていると、やっと漢字で「登塔入口」と書かれた案内板を見つけた。案内板は、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、ロシア語、なんだかわからない語、それと日中両用の漢字でも書かれていて大変親切なのだけれど、方向がよくわからない。結局、締め切りぎりぎりで入口のある地下への階段を見つけ、なんとか受付を済ませることができた。
 ここからは階段を使って157メートルの塔を登る。へとへとになりながらも20分ほどで登り切ったが、そこに辿り着くまでの道のりといったら、これもまた表現のしようがない。外から見たときには「精巧緻密な装飾品を隙間なくびっしりと並べたような」と感じたが、「ような」ではなく、まさに精巧緻密な装飾品を隙間なくびっしりと並べて建てられているのだ、ということがわかった。間近でみるとずいぶん落書きがしてあって残念なのだけれど、これは落書きが多すぎて消しきれず諦めたのか、落書きですら長い年月を積み重ねた歴史であるとして消さないのか、それはわからない。ともかく、この精緻精密荘厳美麗な装飾品の集合体には圧倒された。
 閉館時刻がせまっており、いつまでも塔の上にはいられないので、地上に降りて大聖堂の中を見学することにした。さきほどは時間に追われていたため大聖堂内部をよく見なかったが、落ち着いて見ようと入口をくぐった瞬間「これは!」と叫んでしまった。どこを見てもまた表現のしようもないほど美しく、威厳に満ちている。数多くの柱の列、それに誘われて視線を移すと、霞むほどの彼方に見える祭壇。あちらを向きこちらを向き「これは!」と思うと写真に収めるのだけれど、なにもかもが素晴らしいので「これは!これは!これは!これは!これは!」とうわごとのように繰り返しているうちに自分がいったいどこで何をしているのかわからなくなってしまった。
 しかし、たいていのものがそうなのだけれど、やっぱりケルン大聖堂も、少し距離を置き、足もとから「おおぅ…」と唸りながら見上げたり、遠くからその美しい姿を眺めるほうが正解なのではないか、と思う。するとツマがそれを見透かしたように、橋を渡って川の向こうに展望台があると言った。このツマは人の心が読めるのか、はたまた大聖堂で奇跡が起きたのかはわからない。どちらにしろ、展望台からこの大聖堂を眺めることには大賛成だったので、さっそく向かうことにした。
 橋を渡って川の向こうへ、と言っても、157メートルの塔を上り下りした僕らにはそれはたいそう長く険しく辛い道のりだけれど、わざわざひと駅だけ電車に乗るのもねえ…と歩くことにした。
 歩くことにしたのにはもう一つ理由があって、この橋は特別な橋なのだった。少し前にニュースで紹介されていたけれど、愛し合う二人がこの橋に錠前をかけ、鍵を川に投げ入れると永遠に愛が続くのよ…という世迷い言を誰かが言い始め、それを真に受けた、よく言えば純真、正直に言えば単純馬鹿どもが寄ってたかって錠前をかけ、歩道の片側の柵は何万という赤やピンクの錠前でびっしりと埋め尽くされてしまったのだ。僕らは思った以上に数の多い錠前に、これはちょっと酷いねえ、と眉をひそめつつ橋を渡ったのだった。
 橋を渡ってすぐの所に、ビルが建っている。このビルの屋上が展望台になっているようなので入ると、無愛想な受付の係員がいた。そちらがそのつもりならこちらも愛想を振りまく必要はあるまい。僕らは淡々と二人分6ユーロ(780円)を支払い、エレベーターに乗って屋上に向かった。
 川を1つ挟む、というのは、どうやらケルン大聖堂を眺めるのにはちょうどいい距離のようだ。夕焼けを背景に広がるケルンの街並み、そこにまるで特別に許された存在であるかのようにただ一つそびえる大聖堂。2本の尖塔はまっすぐ天を刺し、広がる雲を突き抜けようとでもしているようだった。
 時刻は19時を過ぎていた。そうは思えないほど明るかったけれど、腹は正直にご飯時を告げていた。僕らはケルンの街に戻ることにした。
 ケルンと言えば、ケルシュというビールが有名だ。大聖堂のすぐそばに、ペータース・ブラウハウスというビアホールがあるという。行ってみると店内は実に賑やかで混んでおり、果たして入れるかな…と心配したけれど、すぐに席に案内された。
 当然のように相席で、隣にはもうずいぶんとできあがっているグループがいた。コースターにはビールを8杯ほど飲んだ印がある。この店では、ビールを注文するとコースターに日本で言う正の字を書き、それをもとに精算するようだ。
 僕らはまずビールを飲むことにした。ドイツの流儀に従って、まずは飲み物を注文し、その後ゆっくりと食べ物を決めるのだ。ビールは、ウェイターが12個ほど穴の開いた丸いお盆にグラスを挿して運んでいる。これではビール以外は運べないが、もうこのウェイターはビール以外の物を運ぶことなど考えていないのだろう。とにかく常に大量のビールを運び続けている。そうして声を掛けられたらテーブルに置き、コースターに印を付けるのだ。おかげでビールを飲み干してしまいなかなか次が来ない、という悲しい光景はここでは見られないのだった。
 僕らの隣の席に、老夫婦がやってきた。目が合ったので笑顔を交わす。このくらいの年齢になると、隣にアジア人が座っていても動じないのだ。老夫婦はさっそくビールを飲みながら、メニューを手に取った。
 ケルシュビールというのは、ピルスナーに近い、とても飲みやすいビールだ。200mlほどの小さなグラスに注がれ、とにかく注ぎたてのものをとにかく何杯も飲む。ガイドブックには、アルコール度数が控えめで小さなグラスだからビールが苦手な女性にもピッタリなのよウフフ…などと書かれているがとんでもない。誰も彼もがカッパカッパとグラスを空にする。
 そんな光景を眺めながら、さて何を食べようかとメニューを広げる。メニューはドイツ語で、小さく英語の説明書きが添えてある。ツマは「ガイドブックで見たライニッシャー・ザワーブラーテンが食べたい!」と言って探すけれど、なかなか見つからないようだった。しかしやがて、それらしいものを見つけた。名前が違うけれど、説明書きと照らし合わせるとたぶんこれ…と注文すると、しばらくして思った通りの物が運ばれてきた。ツマは最終手段としてガイドブックの写真を見せようと思っていた、と打ち明けた。
 ライニッシャー・ザワーブラーテンは、酸っぱい豚肉にソースがかかり、ジャガイモ団子が添えてある料理だ。これの旨さと言ったらもう、豚肉は少し酸っぱすぎるのではないかと抗議団体が押し寄せてもおかしくないほど酸っぱく、けれどビールとの相性はこれ以上の物はないだろうと思える。添えてあるジャガイモ団子はモッチモッチしており、フォークで叩くとポヨンポヨンと震える姿が面白い。
 旨い旨い、とビールを飲みつつ肉を食う。ふと見ると隣の老夫婦は黙ってそれぞれメニューを熟読している。ゆっくり食べるものを決めるのがドイツ流だとはいえ、少しゆっくりしすぎなのではないだろうか。それとも彼らはケルン在住で何十年もこの店に通っているうちにすべての料理を食べ飽きてしまい、かといってツマミ無しで飲むのもねえ…と悩んでしまっているのだろうか。
 しばらくすると最初からいたグループが席を立ち、代わりに中国からの留学生がホストと思われる家族を連れてやってきた。言うまでもなく、ホストというのは夜の街のチャラいアレではなく、留学生を受け入れる家の方々だ。気がつくと老夫婦もいつのまにか食事を楽しんでおり、皆が笑顔を見せている。やはり肉とビールが溢れる場所には幸せが訪れるのだな、ということを実感した。僕らは合計8杯のケルシュを飲み、店を出た。
 21時を過ぎており、外は真っ暗になっていた。いい気分でホテルに向かう。必然的にケルン大聖堂の前を通ることになるのだけれど、僕はまた、おおう…と鳥肌を立てることになった。大聖堂がライトアップされていたのだ。昼間とはまた違う、光と影のコントラストが圧倒的な存在感を醸しだす。真っ黒な空を背景に、それが突如として現れたかのように、僕の前に立ちはだかる。僕はなすすべもなく、その場から一歩も動けなくなったのだった。


もくじ
第 1話 1日目@ 松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ
第 2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
第 3話 1日目B あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね
第 4話 2日目@ なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ
第 5話 2日目A 特にそのためにドイツに来たわけではないですよ
第 6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
第 7話 3日目A 隣にアジア人が座っていても動じないのだ
第 8話 4日目  スパーンと抜かれたりするのだった
第 9話 5日目  やれやれ仕方ない、と最も高いワインを注文する
第10話 6日目  恐ろしいからその店には行かない!
第11話 7日目  あらまあロマンチックねえと言いたくなる気持ちはわかる
第12話 8日目  たぶん5〜6人は薙ぎ倒せるんじゃないだろうか
第13話 最終日  あなたが表示されたので大変困っています