肉とビールの大ドイツ

第4話 2日目@
なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ


 2日目の9月17日、いよいよこの旅のクライマックスが訪れた。いやまだ2日目でこれからいろいろ見所があるのだけれど、それだけ楽しみにしていたのだ。ライン川クルーズの日だ。
 とりあえず身支度を調える。と、外で教会の鐘の音がガンガンガンガンとヤケを起こしたように鳴り始めた。なんだなんだ、テロか火事か空襲か、と身構えたけれど、テレビは延々と調理器具「ナイサーダイサー」の通販番組を流しており、非常事態ということもなさそうだった。鐘は10分以上鳴り続き、やっと止まった。
 窓のから外を見てみると、そこは中庭のようになっていて景色というものは見えないのだけれど、空模様を見ることはできた。出発前からわかっていたことだけれど、ここ数日、南ドイツ辺りは天気が不安定で、この日も朝から雨が降っている。ネットで天気予報を見てみると、雨だけじゃなく風も強いそうだ。
 僕はツマに恐る恐る報告した。キミが雨女だからというわけではない、決してキミが雨女だからというわけではないけれど、今日は雨が降っている。しかも風もかなり強いようだ…と。ツマは、あまり風が強いとなると、ライン川クルーズが欠航になるかもしれない、と言った。確かにその通りだ。しかしクルーズ船を運行するKD社のサイトに行っても運行するとも欠航するとも書いておらず、僕らは途方に暮れてしまった。
 なんにしろ朝ご飯を食べないと、と1階のレストランに向かう。まだ時間が早いせいで、人はまばらだった。ドイツのホテルはたいてい朝食付きで、受付やレジなどもないので適当にレストランに行き、適当に食べればいいのだ。
 調理場のドアは開け放してあり、調理中の女性が見えたので、モーゲン、と声を掛ける。女性はニッコリと、体格がいいので少し怖かったけれどニッコリと笑い、モーゲン、と返してくれた。たぶんこれが今回初めてのドイツ語の会話だ。「ドイツ語を話そう!」の第1章最初のページに載っているような会話だけれど、やはり言葉を交わすのはそれだけで嬉しく、楽しい。だから僕は、どこに行くにもとりあえず挨拶とありがとう、それから簡単な数字くらいは現地の言葉を覚えておくようにしている。
 食事はヴュッフェ方式なので、好きなものを好きなだけ取る。パン、チーズ、ハムがそれぞれ数種類ずつあり、それほど大きなホテルではないけれど充実している。けれど野菜はトマトとキュウリしかないのだった。ドイツの伝統的な朝食はカルテス・エッセンといって温めていないもので済ませるそうだけれど、国外からのお客様を受け入れるため、温かいスクランブルエッグとベーコンもあった。すべてが旨かったけれど、特にパンの旨さは格別だった。日本のホテルでもたまに旨いパンに出会うけれど、そういうのはたいてい、「さあ、ホテルのパンですよ! 上品かつ繊細なのですよ! 焼きたてで旨いのですよ!」という主張が強い。そういう旨さではなく、「さあ…、ワシの焼いたパンだよ。ほうら、好きなだけお食べなさい、ホッホホ」という実にしみじみと味わい深い旨さなのだった。
 食後のコーヒーをおかわりするのだ、とツマが席を立つと、しばらくして首をかしげて戻ってきた。コーヒーマシンのボタンが、通常のボタンの右側にもう一つあるという。なんだろうと聞かれても僕にわかるはずがなく困っていると、ツマはとにかく押してみようと言い出した。この人は「絶対押すな」と書かれた赤いボタンがあったらきっと押してしまうのだろうなあ…とその背中を見送った。
 ところで今日はどうしよう、もし雨がこのまま止まず、しかも風が強いならライン川クルーズは諦めた方がいいのだろうか…と思い悩んでいると、ツマが戻ってきた。途方に暮れたような顔をして、ソーサーにまで溢れたコーヒーをしょんぼりと見下ろしている。溢れたコーヒーは紙ナプキンに吸わせ、なんとかテーブルまで運んできたようだけれど大変汚らしい。一体何があったのだ、と聞いてみると、右側のボタンを押したところコーヒーが順調に注がれ始めたのだが、カップいっぱいになってもそれは止まらず、ついに溢れてしまったのだという。やはりあれは赤いボタンだったのだった。
 あとでわかったことだけれど、ドイツでは朝食時に1人に1つあらかじめカップ2杯分ほどのコーヒーが入った小さなポットが提供され、テーブルに置いておくようだった。そのポットに注ぐためのボタンだったのだろう。
 部屋に戻り、もう一度天気予報を確認すると、雨が降ることは降るのだけれど、風はたいしたことはないということがわかった。それなら問題ないだろう、と1日分の荷物をまとめて、ホテルを出てすぐのマインツ駅に向かう。
 駅の時刻表で出発時刻とホームを確認した。インターネットが自由に使えるとは言っても、なんだかんだ言って、やはり役に立つのは駅舎に貼ってある紙の時刻表なのだった。切符の買い方はもう完全に把握していて、まったく迷うことはなかった。
 今日は木曜日。平日の午前8時過ぎということで通勤の時間帯なのではと思ったが、電車にはほとんど人が乗っていない。駅はそこそこ賑わっていたので、あるいは反対のフランクフルト方面への電車は混んでいたのかもしれない。車窓を眺めながら、30分ほどでライン川クルーズの出発地、ビンゲンの駅に着いた。
 ビンゲン駅には着いたが、ライン川クルーズの案内板は見当たらなかった。事前に地図を見たが乗船場の場所がわからず、まあとにかく駅に行けばそこから乗船場までの道が親切丁寧に表示されているであろう…と考えていたので困ってしまった。かろうじてインフォメーションがあるらしいということがわかったので探してみたが、それらしき建物はない。出航時刻が迫っていることもあり、とりあえず川沿いに行けばいいのではないか、というツマに従って、ライン川のほうに向かった。
 川岸はよく整備されており、公園のようになっている。晴れた休日に散歩でもしたら気持ちが良さそうだけれど、今はあいにく雨が降っている。しばらく西に歩いて行くと、KDと書かれた乗船場があったのだった。雨の中、船を待っている人が10人ほどいるだろうか。チケットを購入してしばらく待っていると、定刻通り船がやってきた。

 ライン川は川幅が400mほどもある大きな川で、クルーズ船は山間をゆったりと縫うように進む。両岸の山の上、あるいは川岸にはいくつもの古城が建っており、山々やいくつかの街を眺めつつ、のんびりとした時間を過ごすこともできる。
 過ごすこともできる、というのは、つまりそういう選択肢もあるよ、ということで、実際は割と忙しいのだ。僕らはタブレットで地図を表示し、GPSにより現在位置を正確に把握しつつ、次の城が近づいてくるとその城の名を調べ、城が見えるであろう方向に目をこらし、視認できしだいカメラを向けシャッターを切る。船は走っているので当然風は強く、しかも雨が降っているので傘をさしている。風に煽られる傘をなんとか押さえ込み、防水でないタブレットおよびカメラが雨に濡れないように配慮しつつ、甲板を右へ左へと走り回るのだ。それがライン川下りの真実の姿なのだ。もっともそんなふうに忙しそうにしているのは僕らだけで、他の人は船内のレストランでビールやワインを飲みつつくつろいだり、ベンチに座って流れゆく風景を楽しんでいるようだった。みんな何をしているのだ、せっかく高い金を払っているのだから、ほらもっとよくあの城を見てごらん…と僕は焦ったけれど、他人など気にしている暇はないのだ。次の城に向けて準備をしなければならないのだ。ああ忙しい。
 それにしても、少し雨が降っているからといって予定を変えずに乗船して本当によかった。もちろん晴れていればもっと爽やかでもっと美しいのだろうけれど、ライン川クルーズの魅力というのはそれだけではないのだ。しっとりと濡れた風に髪をもてあそばれながら川岸の街々を眺める。どの街にも必ずある教会の尖塔、山と川に挟まれて何百年も続いてきたであろう人々の暮らし。そしてそれをずっと見守ってきた、古い城の数々。その魅力は、4時間という乗船時間だけでは味わい尽くせないほど深いのだった。
 次の城まで少し間があるな、とくつろいでいると、何本ものワインを抱えた日本人の男性に声を掛けられた。聞くと、ワインの試飲をさせてくれるという。ライン川流域はワインの名産地でもあるのだ。ライン川下りにはウキウキとサイフの紐を緩めた日本からの団体客もたくさん乗ってくるので、そういった人たちを相手に商売しているのだろう。何本か買えば日本までの送料を無料にしてくれるということだった。僕らはケチなのでたぶん買わないよと言ったけれど、構わず飲めといくつかのワインを小さなカップに注いでくれた。もっともこういう場合に、買わないなら飲ませぬと言われたことは一度もない。どのワインもとても旨かったけれどそのぶん少し値段が高めで、特に今ここで買わねば!というものもなかった。日本からでも注文できるよ、という注文書だけ受け取り、ワイン売りの男性とはそれきりになった。
 船はやがてザンクトゴアールに到着した。9時30分にビンゲンを出発してから2時間弱。上流のマインツ方面から乗船した場合、ここまでが特に古城等の見どころが多く、この先は少ない。そのため、団体で来ている客はほとんどここで降りてしまう。ちょうど昼頃に人も城も少なくなるので、船内のレストランでのんびりと食事をしつつビールでも飲もうじゃないか、と計画していたが正解だった。さすがは綿密な計画表だ、一分の隙も無いのだ。
 晴れていれば甲板のカウンターでビールやヴルスト(焼きソーセージ)を買えるようだけれど、今日は営業していなかったので船内で食べるしかない。船内にはサンドウィッチでおなじみのサブウェイとレストランがあり、せっかくドイツまで来てサブウェイもないだろう、しかもサブウェイではビールが飲めないようだという理由でレストランを選んだ。
 正午少し前だというのにレストランの客は数えるほどしかおらず、したがって店員もあまり店内を歩き回っていない。しばらくテーブルに座って待ち、やっと、たまたま通りがかったウェイターを捕まえることができた。まず僕がビール、そしてツマはワインを注文する。またワインなのだ。ドイツと言ったらビールだというのになぜワインなのだ、と問い詰めるとツマは、先ほどもワイン売りがいたように、ライン川流域はワインが名物なのだと反論した。あまりビールが好きではないツマは、なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ。
 食べ物のメニューは少々品揃えに難があったが、ドイツ名物はちゃんとある。僕らはその中から、焼いたウィンナーにケチャップとカレー粉をかけた、カリー・ヴルストを選んだ。ドイツでカレーとは少し意外な気がするけれど、老若男女に人気なのだそうだ。さすが、カレー様は偉大なのだ。
 注文しようとしたけれど、メニューは文字だけなので、どのくらいの量なのかわからない。そこでウェイターに「コレは何本なのか」と聞いたところ、「アー、ソレ、デカイ」と少したどたどしい英語で答えられた。数を聞いたのになぜデカイと答えたのか、と思ったけれど、まあデカイならよかろう、と、またツマとシェアすることにして一皿だけ注文した。
 しばらくビールを飲みつつ船窓からの眺めを楽しんでいると、カリー・ヴルストが運ばれてきた。それは山盛りのフライドポテトを添えられた30cmほどの巨大ウィンナーで、僕とツマが思わず「うおっ」と小さく声を上げると、ウェイターは「オレ、デカイ、イッタ」と得意げにニヤリと笑ったのだった。僕らはまず巨大ウィンナーを、ケンカにならないようミリ単位で正確に半分に分けると、そのあまりの旨さにあっという間にムッハムッハと平らげてしまった。まったく、なんという旨さなのか。ジューシーで香ばしいウィンナーはカレーの味および香りに飲み込まれるどころか、それを踏み台にして高くジャンプしたかと思うとひらりと身を翻し、高高度より急降下し僕らの脳天にドカンとスパイシー爆弾を落としたのだった。これはどうやら期待した以上にドイツの料理は旨いらしいぞ、と僕らは気づいた。こんな観光船の中のレストランですら、こんなに旨いのだ。
 13時半、終点のコブレンツに到着。前半は忙しかったが、後半はのんびりと船の旅を楽しむことができた。地面に降り立ったのに、まだ船の余韻が残っていて、足もとがフワフワとしている。雨はいつのまにか止んでいた。あたりは少しくすんだような空気に包まれていて、すっきりとした天気ではないけれど実に心地がいい。僕は大きく深呼吸をして振り返り、僕らが下ってきた雄大なライン川を眺めたのだった。


もくじ
第 1話 1日目@ 松戸駅からバスで帰ってくるのとは訳が違うのだぞ
第 2話 1日目A イメージ的にそういう音がした方が格好いいのだ
第 3話 1日目B あなたが生まれ育ったマインツは雨が降って最悪な街ですね
第 4話 2日目@ なんだかんだと言い訳をしてビールを飲まないつもりなのだ
第 5話 2日目A 特にそのためにドイツに来たわけではないですよ
第 6話 3日目@ 文句があるなら理事長も一度食べてごらんなさい
第 7話 3日目A 隣にアジア人が座っていても動じないのだ
第 8話 4日目  スパーンと抜かれたりするのだった
第 9話 5日目  やれやれ仕方ない、と最も高いワインを注文する
第10話 6日目  恐ろしいからその店には行かない!
第11話 7日目  あらまあロマンチックねえと言いたくなる気持ちはわかる
第12話 8日目  たぶん5〜6人は薙ぎ倒せるんじゃないだろうか
第13話 最終日  あなたが表示されたので大変困っています