第6話:2日目@・赤青の鳥


 夜が明け、2日目が始まった。カーテンを開けると、空はすぱっと晴れていた。天気予報は、昨日の午後、つまりは僕らが到着したあたりから急速にはずれだして、天気には恵まれた旅になりそうだった。ホテルの窓から見下ろすネラング川を1本の橋が渡っており、川の向こうからこちらの市街地に流れ込む車で渋滞している。そうか、今日は金曜日、平日だ。
 午前9時。朝日は北東に向かってぐいぐいと昇ってゆく。僕らもぐいぐいと身支度をすませ、簡単に朝食を済ませるとひらりと車に飛び乗り、郊外に向けて走り出した。
 今日は、ラミントン国立公園のオライリーズというところに行く。このオライリーズというのはオライリーさんの私有地で、宿泊施設などがある。しかし、国立公園に隣接していて、これといった仕切りがあるわけでもないので、実質的には国立公園内の入り口にレストランや宿泊施設があるという非常に便利かつ羨ましい状態になっている。
 ゆうべのスプリングブルック国立公園と同じように、往きは標識に従って走ればいいので気が楽だ。しかも、ゆうべとは違って明るいので、山道も気楽に走れる。30分ほども走ると周りはすっかり山になってしまい、速度制限も100キロまでとなった。100キロ制限の標識をこんな山の中で見るのは非常に違和感があったが、道の作りがよく、なるほど100キロ程度で走るのがちょうどいい。カーブ手前には「75キロまで落とせ」「65キロまで落とせ」と具体的に書いてあり、その通りの速度にすれば楽に曲がれる。日本では「スピード落とせ」と曖昧にしか書かないから、どのくらい落としたらいいかはドライバーの判断にゆだねられてしまう。その結果、カーブを見誤って、あるいは故意に無茶な速度でカーブに進入し、事故を起こすことになる。はっきりと「○○キロまで落とさないと死ぬかんね」と書けばいいのだ。
 1時間ほど走ると、小さな集落を通り過ぎた。しばらくすると、エフがタンボリン方面の標識を見つけ、道を間違えたことに気づいた。地図を広げてみると、どうやらさっきの集落が分岐点の町だったらしい。僕は車を反転させ、集落に戻った。
 集落には戻ったが、どうにもそれらしい道が見あたらない。あたりには人もおらず、道を聞くこともできない。釈然としないまま、とりあえずは最もそれらしい道に入っていった。すぐにワイナリーの案内板があり、エフはこの道で正しいという。僕はこんなところでワインが作られているということは知らなかったが、ワイン好きのエフはリサーチ済みだったらしい。集落は90号線の両側にだけつつましく身を寄せ合っていただけらしく、道はすぐに寂しくなった。
 さらに30分ほど進むと、いよいよ道は細くなり、木々も茂ってきた。両側の木は、ユーカリらしい。野生のコアラがいないかと思ったが、なにせ道路標識の制限速度に従ってかっ飛ばしているので、探している暇はなかった。本当にこの道であっているんだろうか、と心配になりかけた頃、唐突に駐車場とゲストハウスが現れた。オライリーズだ。駐車場に車を止めると、あたりは急に静かになった。他にも数台の車があるが、きゃっきゃと騒ぐものはおらず、おお素晴らしき大自然よ我々は今からその一部となるのだ…というどことなく厳かな空気がそこにはあった。欧米系の人々の、ここだけは見習ってもいい点だと思うので、僕らも大自然よ…と厳かな気持ちになりかけたが、腹がぐうと鳴ってそれを拒んだ。まだ午前11時だったが、僕らは小さなレストランに駆け込んだ。
 こんな山の中なのだから軽食くらいしかないだろう、そしてその軽食は我々日本人にとっては重食なのだ...といろいろな意味で悲壮な覚悟をしてメニューをのぞき込むと、なんだかやたらと内容豊富盛りだくさんのメニューだった。正直言って、写真もなく一面文字びっしりのメニューを全て読む気にはなれない。僕はカウンターに行き、店員にハンバーガーか何かないか、と尋ねた。ハンバーガーなら、量的にも問題ないだろう。
 店員は、メニューの中のいくつかを指さした。ハンバーガーはハンバーガーでひとまとめにしておいたほうが客にとってはありがたく便利だと思うが、なぜかハンバーガーはメニュー各地に散乱している。原住民アボリジニ文化によるオーストラリア固有の特殊な分類法に従っているのかもしれないが、とにかく腹が減っていたので考察は後回しにし、マウンテンバーガーとジュースをオーダーした。ジュースはグラスだけ受け取り、サーバーから好きな物を注ぐ形式だった。店員は、グラスと一緒に手のひら大のブザーを手渡した。これが鳴ったら取りに来いという良くあるシステムではあるけれど、クレジットカードで支払いができたりと、こんな山の中までシステム化されているのはさすがだ。
 喉の奥がビリビリするほど甘いジュースを飲みつつ、僕らはテラス席で待った。テラス席とは言っても、野鳥を防ぐために透明なビニールシートで覆ってあり、あまり開放感はない。しかしずっと向こうまで山々を見渡すことができ、ゆったりした気分になれた。他に食事客はおらず、たまに数組の客が写真を撮りにテラスに訪れるだけだった。関西弁一家が隣の席に来たが、わあわあぎゃあぎゃあと騒いだ後に慌ただしく帰っていった。
 だいぶ待ったが、なかなかブザーが鳴らない。僕はエフに、いいかい、ハンバーガーと言ってもマクドナルドとは違うのだよ、ちゃんと作ればそれなりに時間がかかるものなのだよ、時間がかかるということは正しきハンバーガーが今まさに生まれ出でようとしているということなのだよ...と物知り顔で語った。
 15分ほど経ったころ、店員がハンバーガーを運んできた。ブザーを鳴らしてさあ取りに来いというよりはずっと感じが良く、他に客はいないから持ってきたのだろうと素直に礼を言った。しかし、店員は怪訝そうな顔でブザーを取り上げ、「これ、鳴らなかったか」と聞いてきた。鳴っていないと答えると、店員は首を傾げつつ引き返した。
 さあいよいよ食べるぞ、と思ったが、エフがペーパーナプキンがないので取ってこいと言う。テラスから店内に入りカウンターに行くと、店員はブザーを鳴らすスイッチを何度か押しながら、動かないなぁ、とつぶやきながら首を捻っていた。ペーパーナプキンを数枚取って席に戻ると、エフが今度はケチャップがないと言う。再び店内に戻り、ケチャップを探したが見あたらない。僕は店員にケチャップをくれと言った。店員は、一瞬の間をおいて、カウンターの奥の冷蔵庫からケチャップを取り出した。トマトソースと書いてある。なるほど、それで店員が一瞬固まったのか。再び席に戻ると、エフがナイフとフォークがないと言う。3往復もしてたまるか。僕は手づかみで食べるつもりだったので、えいもう知ったことか自分で取ってこいとエフを追いやった。エフは多少英語ができるはずだが、僕の前では絶対に英語を口にしない。気持ちはわかるが、2人で行動するときはいつも僕がやりとりをしなければならないので、面倒でしかたない。
 ハンバーガーはさすがに旨かったが、例によって付け合わせのフライドポテトが多すぎたので、こっそりと持ち帰ることにした。今夜のつまみにすればいいだろう。予想外に満腹になり、僕らはレストランを出た。この後は山の中を散策し、ツリートップウォークという、木々の間に渡された吊り橋のようなここの名物を楽しむ予定だった。
 ウォーキングトラックに向かうと、子供達が鳥に襲われていた。いや、正確には餌付けなのだけれど、子供の肩や頭に大きな鳥が群がっている様は、どうにも襲われているようだった。たしかに、ここでは鳥の餌付けができることは知っていたが、あまり興味はなかった。しかし、この光景を見た僕とエフは顔を見合わせ、無言で頷くと駆け足でレストランに戻り、鳥のえさを買った。$1で、手のひらに余るほどの袋に入ったエサが買える。
 餌付け場に戻ると、まだ鳥がたくさんいた。手のひらにエサを取ると、赤やら青やらのカラフル南国調の鳥が腕に乗り、エサをついばみ始めた。尻尾まで入れると30センチほどある鳥で、こちらに向かって飛んでくる様はとても迫力があるが、まったく無警戒に頭や肩、腕に乗ってくるのでこれはもう可愛くてしかたない。他の観光客は、鳥まみれになっている僕らを見て楽しそうに笑っている。なんだかもう、無邪気で平和で幸せな空気があたりに充満していて、僕らもきゃっきゃとはしゃいでしまった。遠巻きにして写真を撮っている老夫婦がいたので、「あんたらもやりなさいよ」とエサを分けてあげると、老夫婦もたちまち鳥にまみれた。
 ひとしきり楽しみ、エサはまだ残っているけれど、森の中を散策することにした。いつの間にか、午後1時を過ぎている。