第12話:2日目F・土色の何か


 僕はアボリジニのダンスに感心しながらも、意識は9割方、頭の違和感に囚われていた。
 なんだか頭皮がちくちくと痛むので触ってみると、何か硬いものがあった。虫に刺されたか何かで出血し、その血が固まって髪の毛に絡んだのかな、と思い、指で揉んだりしごいたりしてみた。こうすればそのうち取れるだろう。
 しかし、いくらいじっても取れない。アボリジニは激しく歌い踊り、女性アボリジニも踊りだした。女性アボリジニのダンスは大変珍しいそうだが、それどころではない。何本か毛が抜けても構わないという気持ちでぐいぐいと引っ張ってみても、それはまったくびくともしない。
 そうこうしているうちに、とうとうショーは終わってしまった。アボリジニはそそくさと帰っていってしまった。僕らはというと、さあさあいよいよお待ちかね、オーストラリアと言えばこれですよね、とコアラのいるところに連れて行かれ、わいわいきゃっきゃかわいいねぇと記念撮影などをしたのだが、僕はやっぱり頭が気になるし、コアラはやっぱり夜でも活発に動くということはないようだった。
 コアラを見終わると、動物園の出口に連れて行かれた。日本の動物園と同じで、園から出るには売店を通らなければならない作りだった。しばらくぬいぐるみなどを見ていたがすぐに飽きてしまった。他の参加者はなかなか帰ろうとしないが、考えてみれば彼らは迎えのバスを待っているのだ。たぶんバスは皆が買い物を終えるまで来ないつもりだろう。僕らはレンタカーで来ていたので、バスを待っている必要はない。 さっさと帰ることにした。僕はピンズを2つ、エフは絵はがきを何枚か買った。しょぼい客である。
 車に乗り込み、帰り道の途中でコンビニとガソリンスタンドが一緒になった店で明日の朝食を買い、ガソリンを入れた。
 ホテルに戻ると、僕は本格的に頭皮の異常について原因の追求を開始した。まずは、エフに見てもらうことにした。エフは僕の頭を覗き込んだ。僕は、いったい僕の頭にどんな異変が起きているのかと尋ねてみたが、どうもエフの返事ははっきりしない。ううん、とか、ええと、とか、言葉を濁している。ええいもういいどけどけとエフを払いのけ、よよと崩れるエフを飛び越えて鏡に向かって立った。髪の毛を掻き分けてみると、どうもなんだか虫のようなものがいるように見える。僕は頭を鏡に近づけ、その虫のようなものをよく見てみるとやっぱりこれは虫じゃないか。土色の虫が、まるで逆立ちをするように頭皮に刺さっている。つまんで引いても、とげのような口がなかで引っかかっているのか、びくともしない。僕はそれほど虫嫌いというわけではないが、やっぱり虫が刺さっているのは気分が悪い。僕はティッシュを使って虫をつまみ、引っ張ったりひねったりした。不思議なもので、さっきまで平気で素手でつまんでいたものも、正体がわかると触るのもいやになる。
 僕はエフに問いただした。これはもう誰がどう見ても明らかにきっぱりと由緒正しき虫じゃあないか、君はううんとかなんとか言っていたけれど、これは確かに虫じゃあないか、鏡越しで左右反転してはいるけれど、それでもやっぱりひと目で虫だとわかったぞ。
 エフは一瞬の間を置いて答えた。
 「だって、虫が刺さってるって言ったらあなた気絶するでしょう」
 ...なるほど。
 とにかく、虫だとわかった以上、一刻も早くこれを除去しなければならない。僕はエフに、どんな手段を使ってもいいからこの虫を取るようにと命じた。どんな手段を、と言っても、結局はつまんで引っ張るしかない。エフは、やはりティッシュを使って虫をつまみ、ぐいぐいとひっぱった。
 やがて、やっと頑強な虫の吸い口も(というか、たぶん僕の頭皮が)根負けし、虫が取れた。僕は手渡された虫を広げたティッシュに乗せた。どうも虫は死んでいるようであり、ぴくりともしない。僕は、嫌な予感がした。大体において生命というのは子孫を残すことが最終目的だ。ニンゲンのように複雑な社会を構成したりしていると、子供を産んでおしまい、というわけにはなかなか行かないが、この虫のように単純な一生を送るものにとっては、卵を産んだらハイおしまい、ということになってもなんの不思議もない。つまりは、僕の頭皮の下に無数の卵を産み付け、しかる後に、これで使命は果たした、後は任せたぜあばよ...と、メスであるからこのセリフはどうかと思うが、とにかく絶命したと言うことも十分考えられるじゃないか。
 僕は軽い眩暈を覚えながら、それでも必死に観察すると、虫はちょうどスイカの種に足を8本取り付け、先端に刺を持たせ、全体を土色に塗ったような姿だった。僕はその虫の写真を撮った。サイズがわかるように、メジャーを横に置いた。無論、もし病院に行くことになったら、この虫に刺されたのだということをすぐわかるようにしておいたほうが早期救命に繋がるのではないかと考えたからだ。どうも僕の頭皮に刺さっていたのは吸い口であって産卵管ではないようだから少し安心したが、僕は虫には疎いので、すべての虫に置いて吸い口と産卵管が独立しているのかどうかを知っているわけではない。
 僕はエフに背を向け、つぶやくように言った。エフよ、僕は明日の朝目覚めることはないかもしれない。その時は僕の亡骸をけっしてコアラやカンガルーの餌にするのではなく、あのグリーンマウンテンズの木々の肥やしにしておくれ。もしまだ息があり、高熱に苦しんでいるようであれば早急にフロントのあのおばちゃんのところに行き、救急車を呼んでおくれ。バグバグフィーバーフィーバーと叫べば、あのおばちゃんならきっとわかってくれる。そうして病院に着いたら医師にこの虫を見せるんだ。もし間に合わなくて僕が息絶えたら、エフよ、それでもおばちゃんや救急隊を恨んではいけないよ。
 僕とエフは涙を流しながら歯を磨いた。どうせもう死んでしまうのかもしれないが、それでもやはり眠る前には歯を磨かねばならぬ。
 そして僕らは眠りにつき、翌朝すっきりと目覚めた。
 後日談になるが、虫に刺されたところは2週間も腫れたままだった。しかし、特に痒みや痛み、目のかすみ、手足のむくみや排尿困難その他の症状もなく、生み付けられた卵が孵って頭皮の下をもぞもぞと動いている様子もない。いたって健康なのでそろそろ安心してもいいだろうか。
 ワイルドライフサンクチュアリ。動物園とはいえ、夜の森はやはり油断できないのだった。