第9話:2日目C・深紅の酒


 車に乗り、山道を降りて行くと、来るときに通りがかったワイナリーが見えてきた。営業時間は16時半までで、あと20分で閉店してしまう。エフは、このワイナリーの裏手には小川が流れており、そこにはカモノハシが住んでいるという情報まで持っていた。エフの情報収集能力はワインに関してはものすごいが、それ以外の分野ではまったく発揮されないのはどういうことか。
 駐車場に車を止めて小川をのぞいてみたが、カモノハシは見えなかった。僕はエフに、君にとってメインなのはカモノハシかワインかと訪ねると、間髪を置かずにワインだと答え、売店の方に早足で歩き出した。僕は安っぽいアメリカ映画のように、手のひらを上に向け、肩をすくめてからエフを追った。
 売店に入ると、数人の店員が民族衣装っぽい姿で待ち受けていた。どこの民族衣装かはわからないが、とりあえずオーストラリアっぽくはない。彼女らは、いらっしゃませとも言わず、こちらをちらりと見ることもない。なんとなく、閉店間際にややこしそうな客が来たなあ、という空気がないこともない。
 僕らはかまわず、店の奥のワインが並んでいる棚を目指した。ワインは数種類しかなく、説明書きも料金もかかれていないので、選ぶ基準がまったくない。あまり高いものは買えないので、値段を聞いてみることにした。僕は店員の一人を呼び止め、値段を聞いた。店員は、あごに指を当て、しばらく考え込んだ。なんだなんだ、こいつの気分次第で値段が変わってしまうのかおいおい冗談じゃないぞ、と身構えると、彼女は「ジューヨンドル」と言った。日本人客だから日本語で、というサービスは、実は僕にとってはあまり嬉しいことではない。せっかく外国に来たのに、と思ってしまう。しかし、しばらく考えた末にたどたどしい日本語で答えてくれるのは、日豪友好異文化コミュニケーションにレッツトライ、といった気持ちが読みとれるので、少し嬉しくなってしまった。
 14ドルなら、それほど高くはない。店員は、値段に続いてワインの説明を始めた。よく考えれば、味よりもいきなり値段を聞くというのは失礼千万ではないかという気がしないでもないが、僕は特にワイン好きではないので、味なんかより値段の方が気になるのだ。
 何種類かのワインがあったが、甘いとかコーヒーの後味がする(?)とかで、値段は大差ないようだった。僕は車の運転をしなければならないので、エフだけがいくつか試飲させてもらい、結局安いワインを1本選んだ。
 試飲させてくれた店員が、試飲カウンターの奥にいる別の店員に何か言うと、奥の店員はなにやら怒った感じで棚からボトルを取り出した。店員が早口で何か話しかけてきたが、聞き取れなかったので「もっとゆっくり話してくれ」と言った。すると「スロウリー」が「スリー」と聞こえたらしく、店員は「3本ね」と言いながらさらに棚に手を伸ばした。僕は慌てて止めた。まったく、油断も隙もない。もし気が弱い客だったら、そのまま3本買ってしまったかもしれない。
 支払いを済ませて店を出ようとすると、店員は「マタコシクダサイ」と言って微笑んだ。嬉しいものである。嬉しいが、たぶんもう来ることはないだろう。僕は日本国内の旅先でよくコンビニを利用するが、「またお越しください」と言われると、僕は心の中で必ず「いや、もう来ないし」と答える。しかしこのときばかりは、「そうねぇ、機会があったらいずれまた来たいねぇ」と思った。
 店を出ると、さっきは気づかなかったが、あたりはブドウ畑だった。実はなっていなかったが、けっこう広い。確かにここでブドウを栽培し、ワインにしているのだろう。
 ブドウ畑の前には、注意書きがあった。曰く、「ペット禁止」とある。「ジョリーちゃんはペットじゃないざます、あたくしの大事な息子ざますのよ」とわめいてみたらどうなるだろうかと考えてみたものの、あいにく僕はジョリーちゃんを飼っていないので試すことはできない。また、「ピクニック禁止」とあり、見学は大いに結構だけれど居座って馬鹿騒ぎしちゃぁ困るよ、というブドウ園経営者の強い意志が読み取れた。「録音された音楽を鳴らすな」というのもあった。わざわざ「録音された」と指定しているところをみると、生演奏やアカペラは問題ないのだろうけれど、そうこうしているうちに時間が厳しくなってきたので、僕らは急いで街に戻ることにした。車で走っている間にエフがガイドブックを読み、トローラー・シーフードレストランというレストランに行ってみることにしていた。かなりの人気店らしく、予約必須となっているが、まだ時間も早いので大丈夫だろう。